北条雋八
日本の明治時代後期~昭和時代後期の子爵・政治家。子爵北条氏恭(旧河内狭山藩12代藩主)四男で、狭山北条氏14代当主。公明党参議院法務委員長・創価学会文化部顧問を歴任
北条 雋八(北條 雋八[1]、ほうじょう しゅんぱち、1891年(明治24年)5月18日 - 1974年(昭和49年)5月30日[2])は、日本の政治家。貴族院議員。参議院議員(2期)。子爵。
北条 雋八 ほうじょう しゅんぱち | |
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生年月日 | 1891年5月18日 |
出生地 | 東京府 |
没年月日 | 1974年5月30日(83歳没) |
出身校 | 東京帝国大学農科大学林学科(現東京大学)卒業 |
所属政党 |
(無所属→) (公明政治連盟→) 公明党 |
称号 |
従三位 勲二等旭日重光章 子爵 |
配偶者 | 北条克子 |
親族 |
甥・伊達宗彰(貴族院議員) 甥・北条浩(参議院議員) |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1956年7月9日 - 1968年7月7日 |
選挙区 | (子爵議員) |
在任期間 | 1939年4月22日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集1891年(明治24年)5月18日に元河内狭山藩主北条氏恭の四男に生まれる。1913年(大正2年)学習院高等科を卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学林学科を卒業。帝室林野管理局技手となり、後に技師に昇進する。上松出張所長や東京支局業務課などに勤務した[3]。
1925年(大正14年)養父謙吉(実兄)の死去により、家督を相続する。1939年(昭和14年)4月22日、補欠選挙で貴族院子爵議員に当選し[4]、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
日蓮正宗を信仰している関係から、創価学会にも関わるようになり、創価学会文化部顧問に就任する。
1956年(昭和31年)7月8日、第4回参議院議員通常選挙に、全国区から創価学会系無所属として立候補し、辻武寿、白木義一郎(大阪地方区)と共に初当選(以降、連続2回)する。公明政治連盟を経て公明党に所属し、その間、参議院法務委員長に歴任する。
1974年5月30日、死去。死没日をもって正四位から従三位に叙され、銀杯一組を賜った[1]。兄釐三郎の子である尚を養子に迎えた。
家系
編集栄典
編集親族
編集役職歴
編集- 参議院法務委員長
- 創価学会文化部顧問
脚注
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
議会 | ||
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先代 浅井亨 |
参議院法務委員長 1967年 - 1968年 |
次代 小平芳平 |
日本の爵位 | ||
先代 北条謙吉 |
子爵 (狭山)北条家第3代 1925年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |