北投温泉

台北市北投区にある著名な温泉街

北投温泉(ベイトウ ウェンチュエン、漢音読み:ほくとうおんせん)は、台北市北投区にある著名な温泉街で、新北投温泉ともいう。

北投温泉
地熱谷
各種表記
繁体字 北投溫泉
簡体字 北投温泉
拼音 Běitóu Wēnquán
注音符号 ㄅㄟˇ ㄊㄡˊ ㄨㄣ ㄑㄩㄢˊ
発音: ベイトウ ウェンチュエン
台湾語白話字 Pak-tâu Un-choâⁿ
テンプレートを表示

泉質

編集

北投温泉は、天然のラジウム泉として知られる。また硫黄の成分も多く、町には硫黄の臭気が漂う。源泉のpHは1.4-1.6の強酸性である[1]

歴史

編集
 
普済寺

この地は台湾原住民ケタガラン族の言葉で、巫女を意味する「パッタウ」の名で呼ばれていたが、台湾語で同音の「北投」と当て字された[2]。 当地では硫黄が産出されるため大航海時代よりスペイン人が硫黄交易を行っていたが、清朝統治時代にも郁永河なる人物が硫黄を採集し、現在の士林で精錬を試みている[2]

1894年ドイツ硫黄商人オウリー(Ouely)によって温泉の存在が流布され、1896年、大阪商人平田源吾が北投で最初の温泉旅館「天狗庵」を開業した[3][2][4]。 その後、日露戦争の際に日本軍傷病兵の療養所が作られ、それ以降、台湾有数の湯治場として知られるようになった。

1905年、日本人学者岡本要八郎によって北投石が発見される。北投石は、微量のラジウムを含んだ湯の花が、何千年もの歳月をかけて石灰化したもので、世界では当地と日本国秋田県玉川温泉でしか産出されない[4]。当地にある共同浴場瀧乃湯の前で発見された。

また同年、「湯守観音」を祀る「鉄真院」(現普済寺)が創建される[3]

1913年、北投温泉公共浴場(現北投温泉博物館)が落成し、北投公園も完成する[3]

戦前は、モダンな建物が立ち並ぶハイカラな温泉街として知られ、1923年4月25日には台湾行啓中の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)も訪問した[2]

戦後、台湾が中華民国に帰属した後、中華民国政府は北投温泉を歓楽街として位置づけ、置屋の営業を認めた(公娼制度[1]。この為、国の内外から売春目的で北投温泉を訪れる観光客が集まった。

しかし、公娼制度は1979年に廃止され[1]、また、当時台北市長だった陳水扁(第10・11代中華民国総統)の健全化政策により、北投温泉から置屋は消滅し、親子で楽しめるような観光地が復活した。

2010年12月、日本旅館「加賀屋」が「北投加賀屋」を開業した[5]

温泉街

編集

新北投駅前から地熱谷英語版にかけて、日本統治時代の面影が残る古い風情の温泉街が広がる。旅館ホテルなどが数多く存在するのが特徴。台北市中心部から気軽に行けるため、週末には多くの観光客が訪れる。

  • 地熱谷
    • 地熱谷英語版(日本統治時代は地獄谷と呼称)は、高温の源泉があちこちから沸く池である。かつては地熱谷でゆでられた温泉卵が有名だったが、卵をゆでる際に池に転落する事故が絶えないため、今では全面的に禁止されている。
  • 瀧乃湯
  • 星乃湯
  • 北投公園
  • 北投温泉博物館
  • 北投文物館
  • 普済寺
  • 不動明王寺

アクセス

編集

台北捷運新北投支線 新北投駅R22A)下車、またはバス

陽明山方面へ行くロープウェイの建設計画がある。

舞台となった作品

編集

※発表年月日順。

脚注

編集
  1. ^ a b c 大塚吉則「台湾の温泉事情と温泉研究」『日本温泉気候物理医学会雑誌』第72巻第2号、日本温泉気候物理医学会、2008-2009年、105-106頁、doi:10.11390/onki.72.105 
  2. ^ a b c d 片倉佳史「台湾に生きている「日本」」、祥伝社、2009年。 
  3. ^ a b c 李永萍「北投の歴史的出来事」『北投温泉博物館パンフレット』日本語版、台北市政府文化局
  4. ^ a b 鈴木, 2024 & p62.
  5. ^ 台湾に加賀屋が誕生。その意味するところは?”. 日本貿易振興機構 (2011年4月). 2020年6月20日閲覧。

参考文献

編集
  • 鈴木浩大『さあ、海外旅行で温泉へ行こう』みらいパブリッシング、2024年。ISBN 978-4-434-33707-9 

外部リンク

編集