勘解由小路資承
勘解由小路 資承(かでのこうじ すけこと、1860年10月26日〈万延元年9月13日[1]〉 - 1925年〈大正14年〉6月18日[1][2][3])は、日本の華族。子爵。藤原北家日野流勘解由小路家当主(第10代)。貴族院議員。勘解由小路資生三男[1]。
経歴
編集1872年(明治5年)宮内省に出仕[3]。1887年(明治20年)1月12日、明宮勤務(年俸二百四十円下賜)[4]。1889年(明治22年)東宮侍従に就任。1891年(明治24年)4月6日、東宮習志野行啓供奉[5]。父の死去に伴い1893年(明治26年)2月23日、家督を相続した[6]。1895年(明治28年)1月24日、東宮侍従を依願免官[7]。
1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に当選し[8]、死去するまで2期在任した[3][9]。墓所は港区善光寺。
栄典
編集位階
編集- 1893年(明治26年)3月31日 - 従四位[10]
- 1898年(明治31年)6月20日 - 正四位[11]
- 1906年(明治39年)6月30日 - 従三位[12]。
- 1915年(大正4年)7月10日 - 正三位[13]。
- 1925年(大正14年)6月18日 - 従二位[14]
勲章
編集家族
編集脚注
編集- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成 上巻』428頁。
- ^ 『官報』第3851号「帝国議会」1925年6月25日。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』
- ^ 『官報』第1058号「叙任及辞令」1887年1月13日。
- ^ 『官報』第2328号「叙任及辞令」1891年4月8日。
- ^ 『官報』第2894号「叙任及辞令」1893年2月24日。
- ^ 『官報』第3475号「叙任及辞令」1895年2月1日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁、
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁、
- ^ 『官報』第2924号「叙任及辞令」1893年4月1日。
- ^ 『官報』第4491号「叙任及辞令」1898年6月21日。
- ^ 『官報』第6901号「叙任及辞令」1906年7月2日。
- ^ 『官報』第883号「叙任及辞令」1915年7月12日。
- ^ 『帝国議会会議録』第51回帝国議会 貴族院 議員異動
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『帝国議会会議録』第38回帝国議会 貴族院 議員の異動
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 勘解由小路資生 |
子爵 勘解由小路家第2代 1893年 - 1925年 |
次代 勘解由小路資淳 |