勃鞮
生涯
編集紀元前656年、晋の献公は、公子重耳(後の文公)と公子夷吾(後の恵公)が別れを告げずに去ったことに立腹し、陰謀があるのではないかと疑い、蒲の宦官の勃鞮を派遣して重耳に自死するよう命じた。翌日、勃鞮が蒲に到着したところ、重耳は壁を乗り越えて逃走しようとした。勃鞮が重耳の袖を引き裂いたが、重耳は最終的に壁を乗り越えて逃げおおせてしまった。その後、重耳は翟に出奔した[3][4]。
紀元前644年、晋の恵公は、勃鞮を派遣して再び重耳を殺害しようと企てた。しかし、この企ては失敗し、重耳は北狄に逃走した[5]。
紀元前636年、重耳(文公)が即位した後、勃鞮は文公に謁見した。文公は、はじめ、勃鞮を許そうとしなかったが、勃鞮は、斉の桓公と管仲の故事を引用して文公を説得した[5]。後に、勃鞮は、呂省と郤芮に謀反の動きがあることを文公に教えた[6][7]。
脚注
編集- ^ “宦官”. コトバンク. 2022年6月20日閲覧。
- ^ 『周礼』「天官冢宰」:「寺人,王之正内五人。」、「寺人,掌王之内人及女宮之戒令,相道其出入之事而糾之。若有喪紀、賓客、祭祀之事,則帥女宮而致於有司,佐世婦治礼事。掌内人之禁令,凡内人弔臨于外,則帥而往,立于其前而詔相之。」
- ^ 『史記』巻三十九「晋世家」第九:「二十二年,献公怒二子不辞而去,果有謀矣,乃使兵伐蒲。蒲人之宦者勃鞮命重耳促自殺。重耳踰垣,宦者追斬其衣袪。重耳遂奔翟。使人伐屈,屈城守,不可下。」
- ^ 『国語』巻十
- ^ a b 『国語』巻十
- ^ 『春秋左氏伝』僖公二十四年
- ^ (中国語) 寺人披見文公, ウィキソースより閲覧。