加藤泰興

江戸時代前期の大名

加藤 泰興(かとう やすおき)は、江戸時代前期の大名伊予国大洲藩2代藩主。官位従五位下出羽守槍術の達人で加藤家伝流槍術の開祖。

 
加藤 泰興
加藤泰興像(如法寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長16年(1611年
死没 延宝5年閏12月16日1678年2月7日
改名 泰興、月窓(号)
戒名 円明院殿月窓信大居士
墓所 愛媛県大洲市柚木の如法寺
官位 従五位下出羽守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
伊予大洲藩
氏族 加藤氏(光泰系)
父母 父:加藤貞泰、母:小出吉政娘・法眼院
兄弟 泰興直泰細川興昌正室
正室岡部長盛の娘・
継室戸沢政盛の娘・伊勢
泰義泰堅泰茂加藤光信室、大橋重義室、松浦昌正室
特記
事項
加藤家伝流槍術の開祖
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略歴

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慶長16年(1611年)、伯耆国米子藩主・加藤貞泰の長男として米子にて誕生。

しばらくして、加藤家は伊予国大洲藩へ移封となり、元和9年(1623年)に父が死去したため、跡を継ぎ2代藩主となる。なお、江戸幕府から弟の直泰への1万石分与(伊予国新谷藩)の内諾が下されたが泰興はこれを認めず、寛永16年(1639年)に内分分知という形で決着するまで藩内では対立が続いた。

元和10年(1624年)に出羽守に補任される。家臣団編成や軍備強化など、藩政の確立と強化に尽力した。また、大坂城江戸城の改修、仙洞御所の普請工事、蒲生忠知(伊予国松山藩改易生駒高俊讃岐国高松藩)改易、山崎治頼(讃岐丸亀藩)改易による城の在番などの公役をよく務めている。臨済宗の僧・盤珪永琢に教えを受け、寛文7年(1667年)に福田寺を創建し、山林を寄進した。

また、備中国足守藩主・木下利当より淡路流槍術を学び、加藤家伝流を開き、槍遣いの達人と称された。

延宝2年(1674年)2月25日、嫡孫の泰恒に家督を譲って隠居し、剃髪して月窓と号した。

延宝5年(1677年)閏12月16日に死去。享年67。

系譜

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