加納久徴
加納 久徴(かのう ひさあきら)は、上総一宮藩の第2代藩主。一宮藩加納家6代。通称は玖次郎[1]。
時代 | 江戸時代後期(幕末) |
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生誕 | 文化10年6月5日(1813年7月2日) |
死没 | 元治元年3月22日(1864年4月27日) |
改名 | 汲次郎(幼名)、久徴 |
戒名 | 徳性院勇達日徴 |
墓所 |
東京都台東区の谷中墓地 東京都新宿区須賀町の戒行寺 |
官位 | 従五位下、大和守、備中守、駿河守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総国一宮藩主 |
氏族 | 加納氏 |
父母 | 父:加納久儔、母:高木正剛の娘 |
妻 | 石川総佐の娘 |
子 |
養子:加納久成、加納久恒 養女:(久儔の娘・加納久恒室) |
経歴
編集文化10年(1813年)6月5日、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第4代藩主・加納久慎の世子である加納久儔(後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる[2]。
天保元年(1830年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁した。天保9年12月16日(1839年)、従五位下・大和守に叙任される。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年(1842年)10月21日、父の隠居により家督を継いで一宮藩主となる。
嘉永2年(1849年)1月28日に大番頭に任じられ、安政2年(1855年)2月に講武所総裁を兼任する。安政4年(1857年)閏5月1日に奏者番に任じられ、文久元年(1861年)7月15日に若年寄に任じられるなど、幕末期の要職を歴任した。和宮が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、江戸までの警護役を務めた[2]。
文久2年(1862年)閏8月25日、若年寄を辞職する。
元治元年(1864年)3月22日に死去。江戸の戒行寺に埋葬された。享年51[3]。
久徴には実子がおらず、養子として七日市藩前田家から迎えていた久成が文久3年(1863年)に早世していたため、久留里藩黒田家から久恒を迎えて一宮藩主が継承された。なお、久恒も若くして他界したため、養嗣子として加納久宜が三池藩主立花家から迎えられて第4代藩主となった[3]。
治績
編集若くして山鹿流軍学を学ぶとともに、歴史・文学・芸術を愛する教養人でもあり、文武に優れた藩主であった[2]。
天保15年(1844年)、領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた[4]。この記念碑は1981年(昭和56年)に一宮町指定史跡に指定されている[3]。
内憂外患の幕末動乱においては、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない、天保15年(1844年)には高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ、弘化2年(1845年)には他藩に先駆けて九十九里浜に砲台を建設。さらには家臣のみならず町民や農漁民を募り、オランダ式の部隊編成や練兵訓練を施して「加納の陣立て」と評判を呼んだ[2]。
文久3年(1863年)11月、真忠組の乱が起こると、下総佐倉藩や多古藩、陸奥福島藩と協力して文久4年(1864年)1月に鎮圧するという功績を挙げた[2]。
系譜
編集父母
正室
- 菊 - 石川総佐の娘
養子女