劉貴
経歴
編集劉乾の子として生まれた[1][2][3]。懐朔鎮にあって高歓と友情を結んだ[4][5][6]。のちに爾朱栄の下で騎兵参軍をつとめた。建義元年(528年)、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。左将軍・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍の号を加えられた。永安3年(530年)、涼州刺史となった[7][2][3]。
長広王元曄が即位し、爾朱世隆が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の元顕恭と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。晋州刺史に任じられた。普泰元年(531年)、行汾州事に転じた。高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、劉貴は城を棄てて鄴におもむき、高歓に帰順した。太昌元年(532年)、本官のまま肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。天平元年(534年)、陝州刺史となった[8][2][3]。
天平4年(537年)、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、侯景・高昂らとともに独孤信を洛陽で攻撃した。興和元年(539年)11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・太保・太尉公・録尚書事・冀州刺史の位を追贈され、諡を忠武といった[8][9][3]。
子に劉元孫・劉洪徽がいた。劉元孫は員外郎・肆州中正となり、早逝した。劉洪徽が後を嗣ぎ、仮の儀同三司となって、奏門下事をつとめた[10][11][3]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。