劉 璿(りゅう せん、224年 - 264年)は、三国時代の蜀(蜀漢)の皇太子文衡家系劉氏。蜀の第2代皇帝劉禅の長男(長子)で、生母は敬哀皇后の侍女・王貴人。妻は費禕の長女。

劉璿
蜀漢
皇太子
出生 224年
成都
死去 264年
主君 劉禅
劉禅
王貴人
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略歴

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延熙元年(238年)、15歳で皇太子に立てられる。騎射や遊楽を好み、太子中庶子の霍弋に諌められた[1]

また、孟光郤正に皇太子(劉璿)の人物について尋ね、郤正から「親(劉禅)に孝を尽くし、臣下には仁愛をもって接している」との答えを得ると、孟光は郤正に対して劉璿には世間並みのことではなく将来の君主として学ぶことがあるはずだと苦言を呈している[2]

蜀漢が滅亡した後、鍾会姜維が反乱を起こした時に、混乱の中で殺害された。齢41。

血縁

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この他、何人かの姉妹がおり、一人は諸葛亮の子諸葛瞻に嫁ぎ、一人は費禕の子である費恭に嫁ぎ、もう一人は関興の子関統に嫁いだ。

系図

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凡例:太線は実子、破線は養子

 
 
劉封
 
劉林
 
 
 
劉備1
 
 
劉禅2
 
劉璿
 
 
 
 
 
 
 
 
劉瑤中国語版
 
 
 
 
 
劉琮中国語版
 
 
 
 
 
劉瓚中国語版
 
 
 
 
 
劉諶
 
 
 
 
 
劉恂中国語版
 
 
 
 
 
劉璩中国語版
 
 
 
劉永
 
 
劉玄
 
 
 
 
 
劉理
 
劉胤
 
劉承
 
 
 
 
 
 
劉輯
 

脚注

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  1. ^ 『蜀書』霍峻伝(付・霍弋伝)
  2. ^ 『蜀書』孟光伝