斉の大司馬霸府従事中郎の劉絵の六男として生まれた。晋安王蕭綱の下で安北法曹を初任とし、主簿に転じた。母が死去したため、職を辞して喪に服した。喪が明けると、太子洗馬に任じられ、太子中舎人・太子庶子・太子率更令を歴任し、東宮の記録を管掌した。大同9年(543年)、白雀が東宮に集ったことから、孝威は頌を作って奏上した。その言葉はたいへん美しいものであった。太清年間、太子中庶子に転じ、通事舎人を兼ねた。侯景の乱が起こると、孝威は建康の包囲から脱出して、司州刺史の柳仲礼の西上に従ったが、安陸で病没した。
- ^ 『広弘明集』巻20「梁簡文帝法宝連璧序」によると、中大通6年(534年)当時に劉孝威は数え「年三十九」であり、逆算すると建武3年(496年)生まれとなる。
- 『梁書』巻41 列伝第35
- 『南史』巻39 列伝第29