劉京 (琅邪王)
経歴
編集光武帝と陰麗華のあいだの子として生まれた。39年(建武15年)、琅邪公に封じられた。41年(建武17年)、琅邪王に爵位を進めた。
劉京は礼儀正しく孝行で、経学を好み、兄の明帝に最も愛された。59年(永平2年)、泰山郡の蓋県・南武陽県・華県と東萊郡の昌陽県・盧郷県・東牟県の6県が琅邪国に加増された。62年(永平5年)、劉京は琅邪国に下向した。
64年(永平7年)、母の陰太后が死去すると、明帝は太后の遺した財宝を劉京に与えた。劉京は莒に琅邪国の都を置いた。宮室の改修を好んで、技巧を凝らし、殿館の壁を金銀で飾らせた。たびたび明帝の徳を讃える詩賦を献上し、明帝はその美しさを褒めて、史官に記録させた。
ときの琅邪国に城陽景王祠があり、官吏や民衆の信仰を集めていた。祠の神はたびたび当時の琅邪国の宮殿が宜しくないと託宣した。このため劉京が琅邪国の華県・蓋県・南武陽県・厚丘県・贛楡県の5県と東海郡の開陽県・臨沂県の2県とを交換して、開陽県に琅邪国の王宮を移したいと上書したので、章帝はこれを許した。81年(建初6年)2月辛卯[1]、劉京は死去した。諡は孝といった。東海郡即丘県広平亭に葬られた。
子の劉宇が後を嗣いだ。
子女
編集- 琅邪夷王劉宇
82年、劉宇の弟13人が封じられて列侯となった。
脚注
編集伝記資料
編集- 『後漢書』巻42 列伝第32