劇辛
姓名 | 劇辛 |
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時代 | 戦国時代 |
生没年 | 生年不詳 - 前242年(燕王喜13年) |
字・別号 | 劇子、処子? |
本貫・出身地等 | 趙 |
職官 | 将軍、諸子百家(法家?) |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 昭王→恵王→武成王 |
家族・一族 |
劇 辛(げき しん、? - 紀元前242年)は、中国戦国時代末期、趙出身の燕の将軍。法家思想家の処子と同一人物とする説がある[1]。
生涯
編集出身は趙であるが、紀元前312年、燕の昭王が斉に対抗するために、臣下の郭隗の献策をもとに有能な人材を諸国に求めたとき、それに応じて魏の将軍の楽毅や斉の陰陽家の鄒衍と共に燕に移った[2]。以後、昭王から燕王喜まで、70年間5代の燕王に仕えた。
燕王喜12年(紀元前242年)、趙将の李牧により武遂と方城が奪われる。しかし、燕王喜は、趙がたびたび秦に敗北し、さらに既に名将の廉頗が出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て、劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した。劇辛は趙にいたころ、龐煖と親しくしていたため、「龐煖は与(くみ)易きのみ(龐煖はまさしく与するのに容易い人物だ)」と答え、趙に攻め入った。しかし、燕軍のうち二万が捕虜になるという大敗に終わり、劇辛もまた戦死した[3]。
『史記』「孟子荀卿列伝」によれば、趙には名家の公孫竜の堅白同異説と並ぶ学説として、『劇子之言』(『劇先生の言説』)というものがあったとされる[4]。これを『漢書』「芸文志」に記載される法家思想の書物『処子』(旧字体では『處子』)九篇と同一の書籍とする説がある[1]。いずれの書籍も散逸しており、正確なところは不明[1]。