剣持章行
剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体:劍持章行、1790年12月8日(寛政2年11月3日)- 1871年7月27日(明治4年6月10日)[1])は日本の数学者、和算家。諱は章行。字は成紀[2][3]。号は豫山[4][3]または任数堂[3]。通称は要七[5]。後半生は関東各地を遊歴し[6]、香取、海上、印旛、匝瑳、常陸、武州等を中心に、約1000人[2]の門弟を持った[4][7][3]。
経歴
編集上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業[2][1]。幼いころから数学を好んだ[5]。小野榮重に師事し[5][3]、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している[8]。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた[9][10][1]。同学の川北朝隣とともに関流七伝を称された。妻を持ったが意を決して離別した[2]とも死別した[1]ともいう。その後、江戸に出て、日下誠、内田恭などに学んだ。1839年(天保10年)ごろより遊歴を行った[11]。1840年(天保11年)、内田恭に就いた間、『探賾算法』を書した[11]。1859年(嘉永7年)5月、佐倉藩の数学所に呼ばれ講習を行い、測量術を稽古した[11]。
1871年(明治4年)に下総国香取郡(古城村)鏑木の門弟の山崎平右衞門(山崎青渓)の家にて、病死した[5][3][1]。享年82。戒名は「剣善要説居士」[3]。両総地方にも門下が多かったという[11]。1933年(昭和8年)4月、古城村に石碑が建立された[1]。千葉県旭市鏑木の墓所は旭市指定史跡(1972年4月26日指定)となっている[12]。
数学
編集数学、和算における功績では、主に『探賾算法』の著作がある。この書籍の中で、デカルトの円定理[13]や剣持点に関する研究が行われている。
弟子
編集著書
編集出典
編集- ^ a b c d e f 大竹, 茂雄「和算書の出版事情―剣持章行「遊歴日記」の分析―」『群馬文化』第256号、群馬県地域文化研究協議会、1998年10月31日、1-15頁、doi:10.11501/6048242、ISSN 0287-8518。(要登録)
- ^ a b c d e 古城村教育会『古城村誌 前編 (村史)』古城村、1947年、382-384頁。NDLJP:1042098。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 道脇 1985, p. 67.
- ^ a b c 『千葉県教育史』 1巻、千葉県教育会、1936年、512,706,753,756,768,772,784,808,812,814,822頁。NDLJP:1446082。
- ^ a b c d 東京數學物理學會『本朝數學通俗講演集 : 關孝和先生二百年忌記念』大日本圖書、1908年、21,23,25頁。NDLJP:1085851。
- ^ 道脇 1985, p. 75.
- ^ a b 遠藤利貞『日本数学史 増修』岩波書店、1947年、604,631,636,647,653,663,691頁。NDLJP:980952。
- ^ 道脇 1985, pp. 72–73.
- ^ 黒田, 孝郎 (1988). “地方和算家の生活と活動(アゴラ)”. 科学史研究 27 (166): 116–118. doi:10.34336/jhsj.27.166_116 .
- ^ 道脇 1985, p. 73.
- ^ a b c d 三上義夫『房総数学年表』千葉県図書館、1936年。NDLJP:1114570。
- ^ “指定文化財一覧 - 旭市公式ホームページ”. www.city.asahi.lg.jp. 2024年10月2日閲覧。
- ^ 道脇, 義正; 木村, 規子 (1983). “Descartesの円定理とSoddyの六球連鎖定理に関連して”. 科学史研究 22 (147): 160–164. doi:10.34336/jhsj.22.147_160 .
- ^ 千葉県立図書館『房総算学調査資料』千葉県立図書館、1936年、13頁。NDLJP:1114570。
- ^ 寺島柾史『日本科学史年表 : 世界対照』霞ケ関書房、1942年、219頁。NDLJP:1124205。
参考文献
編集- 三上義夫『日本測量術史の研究』恒星社厚生閣、1947年。NDLJP:1058578。
- 『群馬県吾妻郡誌 追録』群馬県吾妻教育会、1936年。NDLJP:1173224。
- 道脇, 義正『和算家の生涯と業績』多賀出版株式会社、1985年7月10日。doi:10.11501/12608009。ISBN 4-8115-8128-8。(要登録)