利根川進
利根川 進(とねがわ すすむ、1939年〈昭和14年〉9月5日 - )は、日本の生物学者。マサチューセッツ工科大学教授(生物学科、脳・認知科学科)、ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、理化学研究所脳科学総合研究センターセンター長、理研-MIT神経回路遺伝学研究センター長。京都大学名誉博士。学位はPh.D.(カリフォルニア大学サンディエゴ校)。
利根川 進 | |
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MIT在籍初期 | |
生誕 |
1939年9月5日(85歳) 日本、愛知県名古屋市 |
居住 |
日本 アメリカ合衆国 スイス |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 分子生物学 |
研究機関 |
京都大学 カリフォルニア大学サンディエゴ校 ソーク研究所 バーゼル免疫学研究所 マサチューセッツ工科大学 理化学研究所脳科学総合研究センター |
出身校 |
京都大学 カリフォルニア大学サンディエゴ校 |
博士課程 指導教員 | Professor Masaki Hayashi |
主な業績 | V(D)J遺伝子再構成による抗体生成の遺伝的原理の解明 |
影響を 与えた人物 | 坂野仁 |
主な受賞歴 |
ルイザ・グロス・ホロウィッツ賞(1982年) ガードナー国際賞(1983年) ロベルト・コッホ賞(1986年) ノーベル生理学・医学賞(1987年) アルバート・ラスカー基礎医学研究賞(1987年) |
プロジェクト:人物伝 |
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1987年、V(D)J遺伝子再構成による抗体生成の遺伝的原理の解明によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。分子生物学と免疫学にそのバックグラウンドを持つが、近年は、脳科学・神経科学にもその関心を広げ[2]、Cre-loxPシステムを用いたノックアウトマウスの行動解析等による研究で成功を収めている。
経歴
編集生い立ち
編集父は機械工学のエンジニアで天満織物(現シキボウ)に勤めており[3][4]、当時家族は大阪に住んでいたが、進は母の実家・愛知県名古屋市で生まれる[3]。利根川家はもともと備後国(現在の広島県東部)福山藩の家臣で[4]、曾祖父・利根川浩は福山誠之館中学(現広島県立福山誠之館高等学校)の2代目校長などを務めたが[5]、跡取りの男児が無く、同じ福山藩の家臣だった岡本家から養子を迎えた[4]。実祖父・利根川守三郎は、電子技術総合研究所(現産業技術総合研究所)の二代目所長や電子情報通信学会初代会長を歴任した電気工学の権威だった[4][6]。生後数ヶ月から大阪で育ち[7]、小学校と中学校の頃は引っ越し続き[7]。父が地方の工場長になり、1947年小学校1年生から1952年中学校1年生まで富山県上新川郡大沢野町(現在の富山市)で[7]、中学2年生までは愛媛県西宇和郡三瓶町(現在の西予市)で過ごした[7]。中学2年生の終わりに兄と一緒に東京の叔父の家に預けられ[3]、1958年、東京都立日比谷高等学校を卒業。父の勉も日比谷高校出身。高校では生物を取らず、生物の知識はほとんどなく、人間の体がみな細胞でできていることは大学に入り、一般教養の生物を取るまでは知らず、友達に話したところ馬鹿にされた[8]。
YMCA予備校で一浪の末1959年、京都大学理学部に入学[3]。元京都大学総長である尾池和夫とクラスメートであった。京都大学では、三年からの専門課程に化学科を選ぶ。当時の利根川はサラリーマンになる気がなく大学に残ることを考えていた。そのため、化学科の中でどの教室を選ぶかが重要になるが、化学は有機にしろ無機にしろ既にできあがった学問であり自分がやることは残っておらず魅力はないと考えたためにやりたいことがなく悩む。安保闘争の後で、資本家のために一生働くのはつまらんという友達の影響で、ノンポリではあったが彼らの言うことももっともだと思うようになりデモにも参加。1960年6月15日に樺美智子の死の後には、京都から上京。国会議事堂の前に立つ。その後、化学科の中にあった生物科学教室で大学院の博士課程を終えたばかりで研究室に残っていた山田という人物に出会い、マーシャル・ニーレンバーグの遺伝暗号解読の話を知り、生物現象を化学的に研究することに興味を持つ[8]。1963年、京都大学理学部化学科卒業。
研究者として
編集同年四月、同大学院理学研究科に進学、同大学ウイルス研究所の渡辺格に師事するものの、渡辺の薦めもあり中退して、分子生物学を研究するため1963年、設立されたばかりのカリフォルニア大学サンディエゴ校へ留学[3]。1968年、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了[3]。Ph.D. in molecular biology。1969年、米ソーク研究所・ダルベッコ研究室でポスト・ドクター研究員。1971年、バーゼル免疫学研究所(スイス)の主任研究員[3]。1981年、マサチューセッツ工科大学生物学部およびがん研究所教授[3]。
- 1987年 免疫グロブリンの特異な遺伝子構造を解明した功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞した[3]。
- 1994年 マサチューセッツ工科大学ピカウア学習・記憶研究センター所長。
- 2005年 独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構運営委員。
- 2006年 MIT内の他研究所の教官公募に際して、研究内容が競合しているという理由により、女性研究者に辞退を迫るメールを出したことが問題視され告発された。MITの内部調査は、不適切な内容を認めつつも女性差別の証拠はなかったと報告している。2006年を最後に、ピカウア学習・記憶研究センター所長の職を辞している。
- 2009年 理化学研究所脳科学総合研究センターセンター長。
- 2011年11月 学校法人沖縄科学技術大学院大学学園理事就任。
受賞・栄典
編集- 1981年
- 1982年 - ルイザ・グロス・ホロウィッツ賞(1983年ノーベル医学賞受賞者のバーバラ・マクリントックと共同受賞)
- 1983年
- 1984年 - 文化勲章
- 1986年 - ロベルト・コッホ賞
- 1987年
- 1988年 - 木原賞
- 1990年 - 新潮学芸賞(立花隆との共著『精神と物質-分子生物学はどこまで謎を解けるのか」)
主要論文
編集- 『Evidence for somatic rearrangement of immunoglobulin genes coding for variable and constant regions.』 PNAS 1976 73 (10), p3628-3632, doi:10.1073/pnas.73.10.3628
- 利根川進, 「免疫認識の分子生物学」『蛋白質核酸酵素』 32(3), p239-250, 1987-03, NAID 40002330949
- 利根川進, 「免疫認識の分子生物学(昭和61年度例会講演要旨)」『日本育種学会・日本作物学会北海道談話会会報』 1987年 27巻 p.52-, doi:10.20751/hdanwakai.27.0_52_2
- 利根川進, 『「出るくぎは打つな」の社会を (日本の独創性を問う<特集>)』 科学朝日 47(8), p62-65, 1987-08, NAID 40000401411
- 利根川進, 「脳の研究で人の心を理解できるのか」『学術の動向』 7巻 7号 2002年 p.53, doi:10.5363/tits.7.7_53
- 『利根川進博士が進める新たな脳科学研究』 現代化学 (461), 28-30, 2009-08, NAID 40016655307
著作
編集- 『私の脳科学講義』岩波新書 2001年 ISBN 978-4004307556
共著
編集- 『生命に挑む 利根川進・花房秀三郎の世界 ―官・学識者が紙上討論!―』 日刊工業新聞社 1988.2 ISBN 978-4526023156
- 『精神と物質 ―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか―』(立花隆対談)文藝春秋・1990年 のち文庫 ISBN 978-4167330033
- 『脳の中身が見えてきた』 甘利俊一,伊藤正男共著 岩波書店 2004.9 ISBN 978-4000065993
- 『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』 講談社ブルーバックス 2016.11 ISBN 978-4062579940
家族
編集- 曽祖父の利根川浩(1851-1932)は、東京師範学校出身の教育者で、福山誠之館はじめ各地で教師・校長を務めた[11]。
- 祖父の利根川守三郞(1873年生)は広島県士族岡本量藏の三男として生まれ、19歳のとき、当時秋田県尋常師範学校長だった利根川浩の養子となり、東京帝国大学工科大学卒業後、逓信局に入り、海外留学生制度により欧米で学び、電気試験所長を務めたのち、古河電気工業重役となった[12][13]。電子情報通信学会初代会長なども務めた[14]。
- 父親の利根川勉(1910年生)はその次男で京都大学機械科卒業後、天満織物(現シキボウ)入社[15]。
- 妻の吉成真由美(1953年生)はマサチューセッツ工科大学(脳および認知科学学部)、ハーバード大学大学院修士課程(心理学部脳科学専攻)修了のサイエンスライター[16]。NHKのディレクターを務め、特集番組『21世紀は警告する』で利根川と知り合って結婚した(利根川は再婚)[17]。
- 真由美との間に米国生まれの二男一女があり、長男はノーベル賞授賞式の記者会見にも同席した[18]。次男は18歳のときMITの学生寮でヘリウム自死した[17][19]。
関連書籍
編集- 『男の生き方40選・下』 城山三郎、1995年3月、ISBN 4167139219
- 「私の履歴書」 日本経済新聞連載 2013年10月
脚注
編集出典
編集- ^ "1987 Basic Medical Research Award". LASKER FOUNDATION. 2009-11-4閲覧。
- ^ 利根川氏「記憶操る手法確立」 脳研究の先端を語る日本経済新聞電子版2015年6月29日
- ^ a b c d e f g h i “scientist:生命を分子の言葉で語るために - JT生命誌研究館” (2006年2月17日). 2014年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月15日閲覧。
- ^ a b c d “(私の履歴書)利根川進(2) 親族 父も両祖父も理科系 父方は電子通信技術の権威”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年10月2日) 2015年11月28日閲覧。
- ^ 誠之館人物誌「利根川浩」福山誠之館校長(第2代)
- ^ 電子情報通信学会会長就任にあたって - 富永英義
- ^ a b c d “(私の履歴書)利根川進(3) 日比谷高 兄と上京受験校に入学 地方のトップ、「中の上」に転落”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年10月3日) 2015年11月28日閲覧。
- ^ a b 立花隆・利根川進『精神と物質』(文春文庫)
- ^ "朝日賞 1971-2000年度". 朝日新聞. 2023年11月6日. 2023年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月6日閲覧。
- ^ DEUTSCHER IMMUNOLOGIE-PREIS
- ^ 福山誠之館同窓会
- ^ 利根川守三郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『日本電気事業発達史』加藤木重教、電友社、1916、p369
- ^ 利根川守三郎初代会長就任演説電子情報通信学会誌Vol.100 No.5 (2017/05)
- ^ 利根川勉『人事興信録. 第15版 下』
- ^ 吉成真由美新潮社
- ^ a b 日本経済新聞2013年10月30日「私の履歴書 利根川進」
- ^ Talking about life in the language of molecules Susumu TonegawaBiohistory Journal
- ^ MIT reexamines campus efforts after 2 suicidesThe Boston Globe, November 9, 2011
関連項目
編集外部リンク
編集- 研究室紹介 利根川進, Ph.D. - RIKEN BSI
- Studies in memory mechanisms with genetically engineerd mice - MITピカウア学習・記憶研究センター
(特集)
- 「科学系ノーベル賞日本人受賞者7人の偉業【利根川進】」 - 国立科学博物館『ノーベル賞100周年記念展』
- 北里が発見し利根川が解明した「抗体」一〇〇年の謎 - TERUMO『医療の挑戦者たち』19
(動画)
- JSTサイエンスチャンネル(2009) 吾輩はノーベルである(5) 下村脩 利根川進〜生物の秘密を探る〜
- sciencentral(2007.10.12) Advice from a Nobel Laureate - YouTube
- 生命誌ジャーナル サイエンティスト・ライブラリー No.79 生命を分子の言葉で語るために
- 利根川進教授 ノーベル医学・生理学賞 - NHK放送史
- 昭和のノーベル賞 初の生理学・医学賞 利根川進氏 「抗体遺伝子は変わっていく」(1987年10月)【映像記録 news archive】 - YouTube(ANNnewsCH)