長森城
長森城(ながもりじょう)は、美濃国長森庄(岐阜県岐阜市切通6丁目付近)にあった平安・鎌倉時代から戦国時代にかけての日本の城。廃城後には同地に切通陣屋が築かれ、「切通陣屋跡」として岐阜市指定史跡となっている[1]。
長森城 (岐阜県) | |
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長森城跡にあった切通陣屋跡の碑 | |
別名 | 切通陣屋(※長森城廃城後) |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 渋谷金王丸? |
築城年 | 1185年(文治元年) |
主な城主 | 土岐氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 埋没、石碑 |
指定文化財 |
未指定 ※切通陣屋跡は市指定史跡[1] |
位置 | 北緯35度23分52.0秒 東経136度47分57.0秒 / 北緯35.397778度 東経136.799167度座標: 北緯35度23分52.0秒 東経136度47分57.0秒 / 北緯35.397778度 東経136.799167度 |
地図 |
長森城の歴史
編集文治元年(1185年)、長森庄(現・岐阜市長森)地頭の渋谷金王丸が長森城を築城したと伝わる。
南北朝時代の暦応2年(1339年)、美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡の一日市場館)からこの長森城に移り、城郭としての整備をする。その後代々土岐氏が城主となった。
城の北側は、京と東国を結ぶ東山道に接し、南側は天正14年(1586年)まで尾張国との国境であった古木曽川に接していた。土岐氏としては、長森城を拠点とすることで、尾張北部の支配も狙っていたと推測される。
文和2年(1353年)、長森城が手狭になったため、土岐頼康は川手城を築城してそこに移り、長森城は土岐直詮が城主となった。土岐氏は以後、川手城を本拠地とした。
切通陣屋
編集宝暦5年(1755年)、安藤信成(信明)が加納藩藩主となったが、翌年陸奥国磐城の平に移封された。
この実績により、美濃国の厚見郡の一部と方県郡の一部に1万8千石が加増された。
美濃国内の領地を治めるために、享和3年(1803年)11月、かつての長森城跡に切通陣屋が築かれた。
明治時代となり、廃藩置県が行われ、切通陣屋は廃止され笠松県の一部となった。
知行所
編集- 厚見郡
切通村、蔵前村、高田村、水海道村、前一色村、北一色村、野一色村、領下村、細畑村、岩地村、日野村、日野新田
- 方県郡
中村、下西郷村、小西郷村、西改田村、東改田村、又丸村、川部村、上尻毛村、上曽我屋村、下曽我屋村
現在
編集地表上での長森城と切通陣屋の遺構は全くないが、旧中山道の近くにある切通観音とその周辺が跡地である[2]。市の史跡となり[1]石碑等が残っている。
脚注
編集- ^ a b c 「岐阜市内の指定等文化財一覧」岐阜市公式HP
- ^ 岐阜市 2020 p.84
参考文献
編集- 岐阜市 2020「第6章 岐阜市のまちなみ」『岐阜市まちなか博士初級・上級認定試験公式テキストブック』p.84