冬島泰三
冬島 泰三(ふゆしま たいぞう、1901年(明治34年)6月2日 - 1981年(昭和56年)12月24日[1])は、日本の映画監督、脚本家である。本名は前出 小四郎(まえで こしろう)[1]、脚本家デビュー時の筆名は前出 胡四朗(読み同)[1]。
ふゆしま たいぞう 冬島 泰三 | |
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本名 | 前出 小四郎 |
別名義 | 前出 胡四朗 |
生年月日 | 1901年6月2日 |
没年月日 | 1981年12月24日(80歳没) |
出生地 | 日本 京都府京都市 |
死没地 | 日本 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 映画、サイレント映画 |
活動期間 | 1924年 - 1970年 |
活動内容 |
1924年 東亜キネマ甲陽撮影所 1926年 脚本家デビュー 1926年 東亜キネマ等持院撮影所 1927年 衣笠映画聯盟に参加 1927年 阪東妻三郎プロダクション 1928年 監督デビュー 1928年 松竹下加茂撮影所 1931年 月形プロダクション 1932年 尾上菊太郎プロダクション 1933年 松竹下加茂撮影所 1949年 新演伎座 1951年 大映京都撮影所 1953年 新東宝 1956年 日活 1960年 東映テレビ・プロダクション |
人物・来歴
編集1901年(明治34年)6月2日、京都府京都市の酒造業の家に「前出小四郎」として生まれる[1]。
旧制・大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)機械科を中途退学して[1]、京都大学機械科助手となる[1]。1920年(大正9年)前後に阪神電気鉄道に入社[1]、同社の沿線の兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の同県西宮市鳴尾)に住んでいた佐藤紅緑に師事した[1]。当時の佐藤の書生にのちの映画プロデューサーの竹井諒がいた[1]。
1924年(大正13年)、佐藤が東亜キネマ甲陽撮影所に招かれて脚本部長に就任する[1]と、冬島も入社し、同部に配属された[1]。「前出胡四郎」の名で執筆した脚本が採用されて細山喜代松が監督し、1926年(大正15年)、脚本家としてデビューする[2]。同年、京都の等持院撮影所に異動になり、石田民三、広瀬五郎に脚本を書いた[2]。東亜キネマでは10本のオリジナルを含む13本の脚本が1927年(昭和2年)までに映画となった[2]。
同年、衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟に参加し[1]、「冬島泰三」をはじめて名乗る。4本のオリジナルを含む8本の脚本が採用され、いずれも衣笠が監督した[3]。『鬼あざみ』はフレッド・ニブロ作品を翻案したもので、ニブロが原作にクレジットされている[3]。同年中に阪東妻三郎が主宰する阪東妻三郎プロダクションに参加、安田憲邦が監督した市川松之助主演作『降魔』をオリジナルに書き下ろし、翌1928年(昭和3年)には、助監督を経験せずに[1]、自らが書き下ろしたオリジナル脚本をもとに、梅若礼三郎主演作『任侠五十三次』で監督としてデビューした[3]。
衣笠作品も阪妻プロ作品も松竹キネマ(現在の松竹)が配給していたことから、同年のうちに松竹下加茂撮影所に移籍した。同撮影所入社第1作はオリジナル脚本による阪東寿之助主演作品『夜の裏町』であった[3]。次作は林長二郎(のちの長谷川一夫)主演作『鳥辺山心中』で、以降、長二郎主演作を連打した[1]。1930年(昭和5年)には、同年のヒット作『何が彼女をさうさせたか』に代表される「傾向映画」、『赭土』をオリジナル脚本で監督した[1]。翌1931年(昭和6年)、二度目の独立を果たした月形龍之介の月形プロダクションの第1作、直木三十五原作のトーキー作品『舶来文明街』を監督した。冬島の初のトーキーであった[3]。
1932年(昭和7年)には、尾上菊太郎の主宰する尾上菊太郎プロダクションに移籍、大衆文芸映画社との提携によるサイレント映画『流転の雁』を監督した[3]。同プロダクションでは7本を監督し、いずれも新興キネマが配給した[3]。1933年(昭和8年)、松竹下加茂に戻った。1941年(昭和16年)公開の『元禄女』で監督作は途絶える。翌1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開戦による戦時統合で新興キネマ、大都映画、日活の製作部門が合併して大日本映画製作(のちの大映)が設立されたが、冬島は、同社の大映京都第二撮影所(現在の東映京都撮影所)で森一生が監督した『大阪町人』の脚本を書いた[3]。
戦後第1作は、1949年(昭和24年)、新演伎座が製作した長谷川一夫主演作『足を洗った男』であった[3]。新演伎座で合計5本を監督し、1950年(昭和25年)末に伊藤プロダクション製作、新東宝配給の『女左膳 鍔鳴無刀流の巻』を監督し[3]、1951年(昭和26年)からは大映京都撮影所で時代劇を撮る。松竹京都撮影所、宝塚映画での時代劇を手がけつつ、1954年(昭和29年)に新芸プロダクションで撮った美空ひばり、市川雷蔵主演作『歌ごよみ お夏清十郎』を機に、新東宝で1955年(昭和30年)に6作を監督した[3]。1956年(昭和31年)からの2年間は日活で監督作を手がけた[3]。1958年(昭和33年)、テレビ映画に進出、日本テレビの「ヤシカゴールデン劇場」の『冬の晨』を監督した。1960年(昭和35年)には東映テレビ・プロダクションで「第二東映」配給作品を手がけた[3]。以降、映画の監督作はない。1960年代はテレビ映画の脚本に専念した[1]。
エピソード
編集無声映画時代に、ラブシーンの字幕で一苦労あった。現代劇なら「愛しています」で事は済むが、時代劇ではこのような言葉は使えない。「惚れました」では俗っぽく、「好きよ」では軽々しいと、冬島が七転八倒して考え出したのが、「お慕い申し上げておりました」というセリフの字幕だった。これは冬島が苦心して生み出した名ゼリフだったのである。
稲垣浩は、「慕う、ということばの発見は、作者自身のよろこびでもあっただろうが、その字幕を見た私たちの驚きでもあった」という。以後このセリフを真似たものが沢山あったのは事実である、として稲垣は、「それほどこの『お慕い申し上げておりました』は大発見であったのである」と語っている[4]。
主なフィルモグラフィ
編集前出胡四郎
編集- 脚本
- 『仮面』 : 監督細山喜代松、東亜キネマ甲陽撮影所、1926年 - 脚本家デビュー作
- 『鉄拳児』 : 監督細山喜代松、東亜キネマ甲陽撮影所、1926年
- 『剣闘』 : 監督石田民三、東亜キネマ等持院撮影所、1926年
冬島泰三
編集- 『鬼あざみ』 : 監督衣笠貞之助、衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所、1927年 - 脚本
- 『降魔』 : 監督安田憲邦、阪東妻三郎プロダクション、1927年 - 脚本
- 『任侠五十三次』 : 阪東妻三郎プロダクション、1928年 - 監督デビュー作
- 『夜の裏町』 : 松竹下加茂撮影所、1928年
- 『鳥辺山心中』 : 松竹下加茂撮影所、1928年
- 『月形半平太』 : 松竹下加茂撮影所、1929年
- 『赭土』 : 松竹下加茂撮影所、1930年
- 『舶来文明街』 : 月形プロダクション、1931年 - 初トーキー
- 『流転の雁』 : 尾上菊太郎プロダクション・大衆文芸映画社 / 新興キネマ、1932年 - サイレント
- 『初陣』 : 松竹下加茂撮影所、1933年 - サウンド版
- 『月形半平太』 : 松竹下加茂撮影所、1934年 - トーキー
- 『唐人お吉』 : 新興キネマ東京撮影所、1935年
- 『元禄女』 : 松竹下加茂撮影所、1941年
- 『大阪町人』 : 監督森一生、大映京都第二撮影所、1942年 - 脚本のみ
- 『足を洗った男』 : 新演伎座、1949年
- 『女左膳 鍔鳴無刀流の巻』 : 伊藤プロダクション / 新東宝、1950年
- 『上州鴉』 : 大映京都撮影所、1951年
- 『銭形平次』 : 大映京都撮影所、1951年
- 『歌ごよみ お夏清十郎』 Onatsu and Seijuro : 新芸プロダクション / 新東宝、1954年
- 『唄祭り 江戸っ子金さん捕物帖』 : 新芸プロダクション / 新東宝、1955年
- ヤシカゴールデン劇場『冬の晨』 : 日本テレビ放送網、1958年 - 初テレビ映画
- 『日本怪談劇場』 : 東京12チャンネル、1970年 - テレビ映画・脚本のみ
- 第1話『怪談・蚊喰鳥』 : 監督土居通芳、1970年7月4日放映
- 第9話『怪談・宵宮雨』 : 監督土居通芳、1970年8月29日放映
- 『怪談』 : 毎日放送、1972年 - テレビ映画・脚本のみ