冨士信夫
冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年(大正6年)8月 - 2005年(平成17年)1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。
冨士 信夫 | |
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生誕 |
1917年8月 日本 富山県 |
死没 | 2005年1月24日(87歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1938年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍少佐 |
除隊後 | 歴史家 |
経歴
編集富山県生まれ。府立八中(現東京都立小山台高等学校)を経て、1938年海軍兵学校(第65期)卒業。戦艦「金剛」、重巡洋艦「熊野」、「利根」乗組。1939年海軍練習航空隊飛行学生。航空母艦「飛龍」乗組を経て、1941年霞ヶ浦海軍航空隊司令承命服務。1944年海軍少佐。1945年台湾第29航空戦隊(新竹)参謀、1946年第2復員省臨時調査部勤務。以後、法廷係として極東国際軍事裁判(東京裁判)のほとんどを傍聴。この間、「海軍少佐」の経歴のため公職追放となる[1]。
東京裁判の大半の審理を傍聴した「生き証人」として、執筆・講演活動のため日本全国を精力的に飛び回り、若い人々との交流にも積極的であった。その東京裁判に関する知識を駆使し、マスコミ・作家による東京裁判関係の取材にも応えた。
市ヶ谷台一号館(旧陸軍士官学校講堂)を取材したNHKの番組にも出演。山崎豊子『二つの祖国』執筆に当たっても、山崎に東京裁判関係部分の描写について助言を行なった。同書(新潮文庫、下巻225ページ)、東京裁判法廷における元外務大臣東郷茂徳の証言場面、「傍聴席の最前列で連日、法廷記録をメモしている元海軍少佐」とあるのは、冨士のことを指す。