内藤政民
内藤 政民(ないとう まさたみ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国湯長谷藩10代藩主。官位は従五位下・因幡守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化3年8月10日(1806年9月21日) |
死没 | 安政2年9月13日(1855年10月23日) |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 酒井氏(左衛門尉家)→内藤氏 |
父母 |
酒井忠徳 内藤政環 |
兄弟 |
酒井忠器、水野忠実、黒田直侯、 市橋長富、政民、小笠原長泰、貞寿院 |
妻 | 内藤政環養女・朔 |
子 |
内藤政恒正室、作、朽木率綱正室 政恒 |
略歴
編集文化3年(1806年)、出羽国庄内藩主・酒井忠徳の五男として誕生。9代藩主・内藤政環の養子となり、文政7年(1824年)8月23日に政環が隠居したため跡を継いだ。同時に叙任している。
湯長谷藩の歴代藩主の中では学問好きの藩主だったらしく、藩校・致道館の創設に尽力し、自ら四書五経を講じて[1]、藩士子弟の教育に努めたといわれている。
系譜
編集父母
正室
子女
養子
脚注
編集- ^ “あぶくま抄(3月27日)”. 福島民報 (2014年3月27日). 2014年6月23日閲覧。