内田正良
江戸時代の大名
内田 正良(うちだ まさよし)は、江戸時代中期の大名。下総小見川藩の第3代藩主。小見川藩内田家6代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保15年(1730年)[1] |
死没 | 文化4年10月12日(1807年11月11日)[1] |
別名 | 主殿(通称) |
戒名 | 泰山 |
墓所 | 東京都台東区蔵前の竜宝寺 |
官位 | 従五位下、主殿頭、近江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下総小見川藩主 |
氏族 | 内田氏 |
父母 |
父:内田正記、母:窪田忠種の娘 養父:内田正伝、内田正美 |
兄弟 | 正房、正良、依田経貞 |
妻 | 正室:伊東長丘の娘 |
子 |
正純、馬場正賀、川勝広品、 依田堯道、娘(夏目為毅室) |
生涯
編集通称は主殿。享保15年(1730年)、内田氏の分家である内田正記の次男として生まれる[2]。同家は内田正世の三男正友を初代としており、父正記は武蔵国多摩郡で500石を支配する旗本であった[3]。はじめは同じ分家の内田正伝の養子となっていた。同家は内田正衆の三男正長を初代としており、養父正伝は常陸国鹿島郡などで1500石を支配する旗本であった[4]。
宝暦3年(1753年)5月26日、本家の藩主・内田正美が早世したため、末期養子となって跡を継いだ。同年7月28日、将軍徳川家重にお目見えする。同年12月18日、従五位下主殿頭に叙任する。宝暦8年(1758年)2月19日に大坂加番となる[5]。明和6年(1769年)8月19日、近江守に改める。天明2年(1782年)2月14日、長男の正純に家督を譲って隠居し[2]、文化4年(1807年)10月12日に死去[5]。享年78。
系譜
編集父母
正室
- 伊東長丘の娘
子女