八木奘三郎

日本の考古学者。

八木 奘三郎(やぎ そうざぶろう、1866年11月17日慶応2年10月11日〉 - 1942年昭和17年〉6月17日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本考古学者。号は静山冬嶺

八木 奘三郎やぎ そうざぶろう
人物情報
別名 号:静山・冬嶺
生誕 1866年11月17日慶応2年10月11日
日本の旗 日本武蔵国江戸青山(現・東京都港区
死没 (1942-06-17) 1942年6月17日(75歳没)
日本の旗 日本東京府
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
学問
時代 江戸時代末期 - 昭和時代前期
活動地域 日本の旗 日本関東地方
日本の旗 日本朝鮮半島
研究分野 考古学
研究機関 東京帝国大学理学部人類学教室
主な業績 縄文土器編年の研究、朝鮮半島の考古学研究
影響を受けた人物 坪井正五郎
若林勝邦
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略歴

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江戸青山(現・東京都港区)にて、丹波国篠山藩(現・兵庫県藩士として生まれる。

1891年明治24年)に帝国大学理科大学人類学教室に標本取扱として雇用され、坪井正五郎や若林勝邦らから教示を受ける。

1894年(明治27年)、千葉県香取市阿玉台貝塚発掘調査した[1]。このとき同貝塚から出土した縄文土器(阿玉台式土器)が、茨城県稲敷郡美浦村陸平貝塚出土の縄文土器とは同じ形式だが、東京都品川から大田区にかけての大森貝塚出土の土器とは異なる形式であることに気付き、阿玉台・陸平両貝塚の土器と、大森貝塚の土器との形式的な違いを、年代差によるものであると結論した。八木は大森貝塚の土器が年代的に古く、阿玉台が新しいとする編年を考えたが、その後の研究で順序が逆であることが判明している。しかし、考古学黎明期であった19世紀末期の段階でこの見解を導きだしたのは非凡であるとの江坂輝弥による評価がある[2]

1902年(明治35年)に台湾に渡り、台湾総督府学務課に勤務。1913年大正2年)には朝鮮半島に渡って、李王家博物館や旅順博物館、南満州鉄道に勤務した[2][3]1936年昭和11年)に帰国し、阿佐ヶ谷に居住した。

縄文時代だけでなく、朝鮮半島の古代遺物古墳時代に関しても多くの研究業績がある[4]。また徳富蘇峰と交流があり、書簡が残っている[3]

著作

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単著

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共著

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著作集

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脚注

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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