兪 海濬(ユ・ヘジュン、유해준1917年12月 - 1986年)は日本統治時代の朝鮮独立運動家大韓民国軍人本貫杞渓兪氏[1]

兪海濬
生誕 1917年12月14日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮忠清南道唐津
死没 (1986-04-15) 1986年4月15日(68歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織 韓国光復軍
大韓民国陸軍
最終階級 副領(光復軍)
少将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院愛国志士墓域191号
テンプレートを表示
兪海濬
各種表記
ハングル 유해준
発音: ユ・ヘジュン
テンプレートを表示

略歴

編集

1917年12月、忠清南道唐津に兪鎭瓚の次男として生まれる[2]。合徳普通公立学校卒業[2]。禮山公立農業学校[3] を3年で修了した後、1935年、中国に亡命した[2]。奉天と上海を経て南京に着き、1936年、朝鮮民族革命党に入党[2]。1937年、民族革命党を離党して杭州に移動し、韓国独立党に入党[2]。同年、広東中山大学に入学したが、日中戦争勃発時に韓国独立党に復帰して杭州に残留していた人員を搬送した[2]

1938年1月、中央陸軍軍官学校第15期入学。第1総隊砲兵大隊第2隊配属[4]。1940年7月、中央陸軍軍官学校第15期卒業。光復軍が創設されると総司令部参謀、西安総司令部暫定部署幹部、第2支隊幹部を歴任。1942年、高雲起と池達洙と共に綏遠省で召募工作活動を行った[2]。1943年、綏遠省包頭に潜入し、内蒙軍英語版に仮入隊した[2]。召募した韓国人の密告によって日本の憲兵に逮捕されて日本に移送後、小倉裁判所で懲役2年、執行猶予3年を宣告される[2]も、終戦の3か月前に釈放される[5]。終戦後は光復軍駐北平暫編支隊(支隊長:崔用徳)参謀(政訓部長[6])および北平地区特派団員として活動した。

1946年1月28日付で軍事英語学校を卒業して中尉に任官(軍番10036番)[7]。第1連隊の創設に参加、同連隊勤務中隊(中隊長:張錫倫大尉)小隊長[8]。1949年6月20日、第25連隊長(中領[9]。1949年12月24日、隷下の第2大隊第7中隊第2小隊及び第3小隊が住民を虐殺する聞慶虐殺事件が起き、1950年1月に直接責任を負って連隊長を解任され、陸軍歩兵学校に転属となった[10]

朝鮮戦争勃発時、陸軍歩兵学校学生隊長[11]。臨時編成した教導連隊の連隊長となり臨津江で防御していた第1師団(師団長:白善燁大領)の増援に向かった[12]。白師団長は教導連隊を解体して主力は師団予備とし、歩兵学校大隊を第11連隊(連隊長:崔慶禄大領)に、陸士大隊の2個中隊を第13連隊(連隊長:金益烈大領)に配属し、連隊本部の幹部は師団司令部要員となった[13]。6月27日午後、兪は、切羽詰まった戦況からせめて部隊を指揮して一戦を交えたいと念願し、白師団長はこれを受け入れて、各連隊に分属されていた教導隊の配属を解いた[14]。兪は約300人を集めて、白師団長はこれを師団予備とした[14]。6月28日、師団の反撃作戦に参加、抵抗を受けることなく前進して主抵抗線を回復した[15]。さらに南下する人民軍を発見して、これに猛射を浴びせて45ミリ対戦車砲を鹵獲した[15]。ソウルが陥落したことにより第1師団は後退するが、前線にいた兪の部隊に後退命令が届かず、師団司令部が下がった後に撤退を知り、敵中を切り抜けて南下した[16]

歩兵学校混成連隊長として漢江の戦いに参加[17]。1950年7月7日、新編第9連隊長[18]釜山橋頭堡の戦いでは第25連隊長として杞渓・安康の戦いに投入されるが損害を受けたので更迭される[19]

1952年、南部地区警備司令部副司令官を経て1953年、同司令官[20]

朝鮮戦争休戦後は第25師団長[21]、陸軍歩兵学校校長、政訓監(1959年6月[22])、陸軍大学総長(1962年3月[23])、第1軍副司令官などを歴任[2]

1967年8月21日[24]少将で予備役編入。

1967年8月23日、水資源開発公社理事[25]

1977年、建国勲章独立章授与[2]

出典

編集
  1. ^ 당진출신 독립운동가 유해준(兪海濬, 1917∼1986)을 만나다” (朝鮮語). 당진신문 (2018年2月5日). 2022年9月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k “光復軍出身の独立運動家兪海濬将軍生誕100周年記記念” (朝鮮語). BreakNews. (2017年12月27日). http://www.breaknews.com/sub_read.html?uid=550393 2018年7月6日閲覧。 
  3. ^ “<イ・ジェジョン回顧録39>光復軍出身の「悲劇の将軍」遺骨(<이재전회고록39>광복군출신 '비극의장군' 유해)”. 朝鮮日報. (2004年1月10日). http://bemil.chosun.com/nbrd/bbs/view.html?b_bbs_id=10030&num=33 2015年11月29日閲覧。 
  4. ^ 中国黄埔軍校網. “成都本校第十五期第一総隊砲二隊学員姓名籍貫表” (中国語). 2016年3月27日閲覧。
  5. ^ 張昌国 (1982年11月18日). “(3567)제79화 육사졸업생들(20)광복군” (朝鮮語). 中央日報. http://news.joins.com/article/1664273 2018年7月6日閲覧。 
  6. ^ “(84)<제6화>창군전후(3)” (朝鮮語). 中央日報. (1971年2月17日). http://news.joins.com/article/1278792 2018年7月6日閲覧。 
  7. ^ 佐々木a 1976, p. 86.
  8. ^ 佐々木a 1976, p. 118.
  9. ^ 佐々木a 1976, p. 210.
  10. ^ 真実・和解の為の過去史整理委員会 2007, p. 442.
  11. ^ 佐々木b 1976, p. 276.
  12. ^ 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』草思社〈草思社文庫〉、2013年、219頁。 
  13. ^ 佐々木b 1976, p. 277.
  14. ^ a b 佐々木b 1976, p. 412.
  15. ^ a b 佐々木b 1976, p. 478.
  16. ^ 佐々木b 1976, p. 486.
  17. ^ 6·25전쟁사 제3권- 한강선 방어와 초기 지연작전 저자 양영조 외저” (PDF). 韓国国防部軍事編纂研究所. p. 142. 2018年7月6日閲覧。
  18. ^ 6·25전쟁사 제4권-금강·소백산맥선 지연작전 저자 양영조 외저” (PDF). 韓国国防部軍事編纂研究所. p. 428. 2018年7月6日閲覧。
  19. ^ 佐々木 1977, p. 207.
  20. ^ 對非正規戰史(1945~1960)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 269. 2020年2月20日閲覧。
  21. ^ デジタル唐津文化大典. “兪海濬” (朝鮮語). 2024年9月27日閲覧。
  22. ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年6月3日). http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=19590603000006 2019年10月22日閲覧。 
  23. ^ 陸大總長에 兪海濬少將任命 將星級六名 豫編도 發令” (韓国語). 国史編纂委員会. 2015年11月28日閲覧。
  24. ^ “兪海濬少将など予備(유해준 소장 등 예편)”. 中央日報. (1967年8月21日). http://gangnam.joins.com/news/article/Article.aspx?total_id=1131263&sc=&mc= 2015年11月29日閲覧。 
  25. ^ “오창근씨 등 이사에” (朝鮮語). 中央日報. (1967年8月23日). http://news.joins.com/article/1131789 2016年12月4日閲覧。 

参考文献

編集
  • 韓詩俊 (1993). 韓國光復軍研究. 一潮閣. ISBN 8-9337-0078-1. NCID BA36932080 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 上 (建軍と戦争の勃発前まで)』原書房、1976年3月10日。NDLJP:12172188 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 中 (五〇年春からソウルの陥落まで)』原書房、1976年9月30日。NDLJP:12172909 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 下 (漢江線から休戦まで)』原書房、1977年3月10日。NDLJP:12172908 
  • 진실·화해를위한과거사정리위원회 編 (2007). 2007년 상반기 조사보고서. 진실·화해를위한과거사정리위원회 
軍職
先代
李貞錫
  南部地区警備司令官
第4代:1953.6.24 - 1956?
次代
?
先代
文容彩
  歩兵第25師団長
第2代:1956 - 1957.7
次代
張好珍
先代
金點坤
  大韓民国陸軍歩兵学校校長
第17代:1957.7 - 1959.3
次代
金東斌