全国ポピュラーベストテン

全国ポピュラーベストテン』(ぜんこくポピュラーベストテン)は、1986年4月から2006年4月2日まで火曜会の企画で、文化放送が制作受託し、文化放送と火曜会加盟のAM局で放送されていた、洋楽チャートラジオ番組

9500万人のポピュラーリクエスト

オール・ジャパン・ポップ20

ALL JAPAN TOP20

全国ポピュラーベストテン
ジャンル 音楽チャート番組(洋楽)
放送方式 録音
放送期間 1963年 - 2006年
放送時間 30分(60分)
放送局 文化放送
制作 文化放送
ネットワーク 火曜会
パーソナリティ 小島正雄
みのもんた
せんだみつお
ばんばひろふみ
梶原茂
川島なお美
八木誠
小林克也
プロデューサー 大森庸雄(初期)、宮本晋ほか
公式サイト 公式サイト
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概要

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パーソナリティは音楽評論家の八木誠(~放送終了まで)。 文化放送と火曜会加盟のAM各局のランキング、電話リクエスト、ポップスのオンエア率、レコード・CD売り上げ、有線放送の放送回数等のデータを加味して、洋楽の上位20曲をランキング形式で毎週発表していた。

いわば「全国歌謡ベストテン」や「SUPER COUNTDOWN 10」の洋楽版であり、TOKYO FMの「ポップス・ベスト10」よりも歴史が古い長寿番組であった。

毎年年末には、文化放送アナウンサーの扇一平太田英明を交え「全国ラジオ音楽賞・ポピュラー部門」が発表されていた。

なお、この項では前身番組に当たる「9500万人のポピュラーリクエスト」「オールジャパン・ポップ20」「ALL JAPAN TOP20」についても述べる。

歴史

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  • 前身は、1963年4月に放送を開始した「9500万人のポピュラーリクエスト」(9500まんにんのポピュラーリクエスト)。パーソナリティは小島正雄。毎週番組に寄せられたリクエスト葉書の数によってランキングを決定し、21位まで発表する形式。なお「21位」と中途半端なのは、「今週のベストテン」(TBSラジオ)や「東芝ヒットパレード」(ニッポン放送)といった当時の先発番組と差別化を図るためだったという。開始翌年には1週間に1万枚を超えるリクエスト葉書を集める人気番組となる。
  • 1967年5月より、小島の降板に伴い番組名を「オールジャパン・ポップス20」に変更。パーソナリティは当時文化放送のアナウンサーだった土屋恵。ランキングも40位までの紹介となる。番組開始後ほどなく「ポップス20」から「ポップ20」に改題。以後、何度かのパーソナリティ変更(後述)を経て、同タイトルでの放送は1985年3月まで続く。
  • 1985年4月より、小林克也をパーソナリティに迎え、「ALL JAPAN TOP20」(オール・ジャパン・トップ20)とタイトルを改めスタート。ネット局などはほとんど変更がなかったものの、ランキングの紹介は20位までとなり、得点も廃止、放送回数のカウントも改題1回目を第1週としてカウントするようになった[注 1]
  • 1986年1月より、地方局向けに八木誠のパーソナリティによる「ALL JAPAN TOP20」がスタートする。いわゆる「裏送り」バージョンで、同年3月までは小林克也版(文化放送のみでオンエア。文化放送制作)と八木誠版(地方局向け。火曜会制作、文化放送制作受託)、2つの「ALL JAPAN TOP20」が存在することとなった。なお、これら2つのバージョンは、ランキングも微妙に異なるものであった。
  • 1986年4月より、八木誠版「ALL JAPAN TOP20」は「全国ポピュラーベストテン」に改題、それと同時に文化放送でのオンエアもスタートする[1]。放送回数(週数)のカウントも「オールジャパン・ポップ20」から通算したものに戻された。
  • その一方で、小林克也版「ALL JAPAN TOP20」も文化放送のみでそのままオンエアが続くことになり[注 2]、文化放送では「ALL JAPAN TOP20」と「全国ポピュラーベストテン」、同じ番組を源流に持つ2つの洋楽チャートプログラムが別々に放送されることになった[1]

シリーズの終焉

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2006年4月2日の放送(文化放送でのオンエア)をもって番組が終了。これにより、1963年4月に放送開始した『9500万人のポピュラーリクエスト』から始まった長寿番組シリーズは43年の歴史に幕を下ろした[注 3]

シリーズの変遷

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  • 9500万人のポピュラーリクエスト - 1963年4月~1967年4月
  • オールジャパン・ポップス20→オール・ジャパン・ポップ20 - 1967年5月~1985年3月
  • ALL JAPAN TOP20 - 1985年4月~1986年3月
  • 全国ポピュラーベストテン - 1986年4月~2006年4月

番組(全国ポピュラーベストテン)の構成

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  • 番組は、主に60分版と30分版(60分版を短縮したもの)があり、放送するAM局や放送時期によって異なっていた。
  • 30分版では、10位~4位までのランク上昇曲を中心に3曲をフルコーラス(他の曲はフラッシュ)で紹介→20位~11位までをフラッシュで曲を紹介→3位~1位までをフルコーラスで紹介する構成であった。
  • なお、60分版では30分版に加えて、20位~11位までの初登場曲やランク上昇曲をフルコーラスで数曲紹介したほかに、1960、70年代の洋楽ヒット曲を紹介する「八木誠のなんでもポップスファイル」のコーナーなどで構成されていた。
  • このほか、毎週各地方局のアナウンサーや担当ディレクターが電話で八木とやりとりしながら、その局の洋楽ランキングトップ10を発表してもらうミニコーナーもあった(1990年頃まで)。
  • ALL JAPAN TOP20の開始時にリニューアルされた3位、2位、1位の曲前に入るSE(「This Week No.〇」)は、「全国ポピュラーベストテン」に改題されたあともそのまま使用された。
  • 例年、年末年始は通常のランキング発表を休止し、その年の12月最終週では、文化放送アナウンサーの扇一平太田英明を交え「全国ラジオ音楽賞・ポピュラー部門」を発表し[注 4]、新年第1週目では、前年の年間ランキングトップ20を発表していた[注 5]

番組のテーマ曲

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  • 1970年代(オールジャパン・ポップ20放送期)では、モンキーズの「スター・コレクター」が使用されていた。
  • ALL JAPAN TOP20が開始した1985年4月から、全国ポピュラーベストテン放送期の1990年頃までは、番組のオープニング、エンディング共に、デイヴ・グルーシンの「ナイト・ラインズ」が使用されていた。
  • 1990年代以降の番組エンディング曲は、オランダのフュージョングループ、フルーツケーキの『CAJINO JUNP』であった。

パーソナリティ

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  • 「9500万人のポピュラーリクエスト」時代
  • 「オールジャパン・ポップ20」時代
  • 「ALL JAPAN TOP20」(火曜会版)時代
    • 小林克也(1985年4月 - 12月)
    • 八木誠(1986年1月 - 3月)
  • 「全国ポピュラーベストテン」時代
    • 八木誠(1986年4月 - 番組終了まで)

各年度の年間チャート1位曲

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9500万人のポピュラーリクエスト」時代

  • 1963年:(年間チャート発表なし)
  • 1964年:恋はスバヤク/ガス・バッカス
  • 1965年:ヘルプ/ビートルズ
  • 1966年:君といつまでも/ベンチャーズ

オール・ジャパン・ポップ20」時代(1985年は「ALL JAPAN TOP20」)

全国ポピュラーベストテン」時代

1位獲得記録(1967年以降)

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※は不連続記録、▲は年末年始にランキング発表がなかった週を含む(前後が1位だった場合のみ加算)

  • 12週
    • 二人だけのデート/ベイ・シティ・ローラーズ(1976年~1977年)▲
    • ストレンジャー/ビリー・ジョエル(1978年)※
  • 11週
    • 愛の伝説/ミッシェル・ポルナレフ(1973年~1974年)▲
    • ダンシング・シスター/ノーランズ(1980年)
    • イッツ・マイ・ライフ/ボン・ジョヴィ(2000年)
  • 10週
  • 9週
    • ゴッドファーザー・愛のテーマ/ニノ・ロータ、アンディ・ウィリアムス(1972年)
    • バイ・バイ・ベイビー/ベイ・シティ・ローラーズ(1974年)※
    • プリーズ・ミスター・ポストマン/カーペンターズ(1975年)※
    • ロックン・ローラー/ベイ・シティ・ローラーズ(1977年)
    • ライク・ア・ヴァージン/マドンナ(1985年)
    • ラッキー・ラヴ/カイリー・ミノーグ(1988年)
    • ファンタジー/マライア・キャリー(1995年)
    • ビリーヴ/シェール(1999年)
    • リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ/リッキー・マーティン(1999年)
    • ユー・ロック・マイ・ワールド/マイケル・ジャクソン(2002年~2003年)▲
    • オール・ザ・シングス・シー・セッド/t.A.T.u(2003年)

文化放送での放送時間

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  • 全国ポピュラーベストテンのスタートにあわせて、文化放送では1986年4月に土曜深夜26:30~27:00(~1992年10月まで)で放送開始。以降、一部の時期(後述)を除いて、基本的には最終回まで30分版が放送されたが、番組改編期や特別番組等で放送中止の週がたびたびあった。
  • その後、土曜16:30~17:00の時間帯(1992年10月~1993年10月)に移ったが、以降は番組改編期の都度、日曜朝の時間帯(6時、8時台)、平日の夜間(19時~21時台)や深夜(25時、26時台)の時間帯など放送時間が変わることが多かった。
  • 1996年、97年の4月~10月期は、月曜の19:00~20:00に「太田英明のマンデーミュージックゾーン」(97年は「マンデーミュージックステーション」)の1コーナーとして、太田アナと八木が生放送で番組を進行することもあった。ただし、ナイター中継がない日やナイターが雨天中止時の放送であったため、特に9月、10月期は放送中止になる週が多かった。
  • 2004年4月以降は、日曜朝6時台の放送(30分版、のち25分版)となり、最終回を迎えた。

各局の放送時間(2005年10月改編時)

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関連項目

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  • 大森庸雄 - 音楽評論家。かつての番組プロデューサーだった人物。

脚注

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注釈

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  1. ^ 文化放送では、毎週日曜11時からの1時間枠で放送開始。提供スポンサーとしてマクドナルドがついた。
  2. ^ 1989年4月まで放送が続いた(最終回は同年4月8日付)。なお、小林克也版「ALL JAPAN TOP20」は、86年4月~87年3月にかけて、全国ポピュラーベストテンを放送していない一部のAM局(朝日放送など)でネットしていた時期があった。
  3. ^ ちなみに最終回の第1位はジェームス・ブラントの「ユア・ビューティフル」であった。
  4. ^ 1988年は、昭和天皇関連により全国ラジオ音楽賞・ポピュラー部門の発表はなかった。また、2003年は、その年の12月最終週で2003年の年間ランキング、2004年1週目で2003年の全国ラジオ音楽賞・ポピュラー部門発表が放送された。
  5. ^ 前年11月~その年の10月までのランキングをポイント集計したものであったため、年によっては、前年後半のヒット曲が入るケースもあった。また、1988年の年間ランキング(1989年1月1週放送分)は、昭和天皇の崩御により、週末に放送している多くのネット局で放送中止となった。
  6. ^ 文化放送での放送時間は一時期半年ごとに放送時間が変更されていた。そのため、改編期の時の挨拶は「この時期は番組改編期のため放送時間が変更されることは多いようですがいかがお過ごしですか?」で始まるのが定番だった(時期により現在ではアニラジ番組枠である水曜25:00(この枠の後番組は「東京アニメセンターRADIO」)や日曜25:30(現在この枠は放送休止中)で放送されていたり土曜16:30(現在この枠は「伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛」)など日中や早朝での放送であった。)。また、土曜26:30の放送時代も過去多数あった。

出典

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  1. ^ a b 懐かしの番組!!あの頃の文化放送は、、、!?【1980年代後半タイムテーブル公開】”. 文化放送. 2021年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月16日閲覧。

外部リンク

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