光明寺 (久喜市)
光明寺(こうみょうじ)は、埼玉県久喜市本町1丁目(旧地名:大字久喜本字荒鎌)にある寺院である。山号は瑠璃山(るりざん)、院号は薬王院。真言宗豊山派。 なお当院より約2キロメートル北西に、寺号が類似する「光明院」がある。そちらの寺も同じく山号が「瑠璃山」であり、真言宗豊山派である。
光明寺 | |
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本堂(2012年7月) | |
所在地 | 埼玉県久喜市本町1丁目 |
位置 | 北緯36度4分16.9秒 東経139度40分10.6秒 / 北緯36.071361度 東経139.669611度座標: 北緯36度4分16.9秒 東経139度40分10.6秒 / 北緯36.071361度 東経139.669611度 |
山号 | 瑠璃山 |
院号 | 薬王院(藥王院)[1] |
宗旨 | 新義真言宗[1] |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 不動明王[1] |
創建年 | 1580年(天正8年) |
中興年 | 1252年(建長4年)[1] |
中興 | 賢信[1] |
正式名 |
瑠璃山薬王院光明寺 瑠璃山藥王院光明寺 |
公式サイト | 光明寺ホームページ |
法人番号 | 7030005004375 |
歴史・概要
編集本山は埼玉県幸手市に所在する正福寺であり、1252年(建長4年)に賢信の中興とし、1580年(天正8年)に開かれた新義真言宗豊山派の寺院である[2]。本尊は不動明王である。
薬師堂
編集薬師堂(やくしどう)は光明寺の南側に所在しているお堂である。
この薬師堂では薬師如来がまつられている。主な行事として「どらなわ」というものがある。このどらなわは江戸時代より受け継がれている行事であり、1月5日の朝9時ごろより長さ15m・太さ30cmの大縄(どら縄)を綯い、昼ごろには薬師堂に飾られている古いどらなわと交換し、新しく結い直したどらなわを飾るというものである[3]。
境内・周辺
編集- 境内
- 周辺
文化財
編集久喜学校
編集久喜学校(くきがっこう)は1837年(明治6年)1月、光明寺本堂に設立された小学校である。
久喜学校は1837年(明治6年)1月、久喜本町・久喜新町・古久喜村の組合学校として設立された。同年5月17日に久喜学校内に事務局が開設された。この事務局では埼玉県の学校改正局との連絡業務を地域の学校の取りまとめとして行い、吉羽学校・鷲宮学校・豊明学校・下清久学校・篠津学校・江面学校・下早見学校の7校の監督業務も行っていた。
初期に用いられていた教科書としては「単語篇」「知恵の糸口」「ういまなび」「学問のススメ」「西洋事情」「窮理図鑑」「世界国尽」「児蒙教草」などである。
その後、小学校令や町村制の施行などにより、1892年(明治25年)に久喜町立久喜尋常小学校と改称する。1913年(大正2年)に現在の久喜小学校所在地に移転し、学校は今日の久喜小学校に引き継がれている。
なお、光明寺の境内にはこの久喜学校の開校を記念した記念碑が1963年(昭和38年)に建立され、所在している[5][6]。
光明寺遺跡
編集光明寺遺跡(こうみょうじいせき)は、光明寺周辺一帯に所在する埋蔵遺跡である[7]。
この遺跡は主として縄文時代の遺跡であるが、中世・近現代のものも含まれている。このうち一部で1985年(昭和60年)に光明寺南遺跡として調査が行われた。出土品としては堀之内式土器を主とする土器や石器、装飾品、住居跡などである[8]。
アクセス
編集脚注
編集- ^ a b c d e 新編武蔵風土記稿 久喜町.
- ^ 『久喜市史 通史編 上巻(776~781ページ)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行
- ^ 『久喜市史調査報告書 第3集 久喜の祭りと行事(7ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和59年3月25日 発行
- ^ 久喜市ホームページ.
- ^ 『久喜市史 通史編 下巻(50ページ~60ページ)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行
- ^ 『久喜市史 通史編 下巻(149ページ~162ページ)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行
- ^ 『久喜市史調査報告書 第7集 久喜市の遺跡(19ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和62年2月20日 発行
- ^ 『久喜市史調査報告書 第7集 久喜市の遺跡(102ページ)』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和62年2月20日 発行
参考文献
編集- 「久喜町 光明寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ211埼玉郡ノ13、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764009/9。
- “市指定 撫山中島先生之墓”. 久喜市 (2017年12月4日). 2021年3月19日閲覧。