備中国分寺

日本の岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院

備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市にある真言宗御室派寺院山号は日照山。本尊は薬師如来

備中国分寺

遠景
所在地 岡山県総社市上林1046
位置 北緯34度39分59.08秒 東経133度46分55.77秒 / 北緯34.6664111度 東経133.7821583度 / 34.6664111; 133.7821583座標: 北緯34度39分59.08秒 東経133度46分55.77秒 / 北緯34.6664111度 東経133.7821583度 / 34.6664111; 133.7821583
山号 日照山
宗派 真言宗御室派
本尊 薬師如来
創建年 天平13年(741年
開基 聖武天皇(官立)
中興年 江戸時代中期
札所等 備中西国三十三所観音霊場28番
文化財 五重塔(国の重要文化財
木造地蔵菩薩立像(岡山県指定文化財)
法人番号 6260005004618 ウィキデータを編集
備中国分寺の位置(岡山県内)
備中国分寺
備中国分寺
備中国分寺 (岡山県)
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奈良時代聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である備中国分寺跡備中国分尼寺跡(ともに国の史跡)についても解説する。

田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっている。

歴史

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寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興したが衰微し、江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされる。

境内

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五重塔(国の重要文化財

五重塔は、高さ34.315メートル。南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50メートル。塔跡が残る)を焼失したのち、1821年文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年-1847年)に完成した。江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔である。当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体である。この塔は国の重要文化財に指定されている。

備中国分寺跡

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創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複している。寺域は東西160メートル・南北180メートル。出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されている。なお国府は賀陽郡であるが、国分寺は窪屋郡に位置している。

伽藍は以下に示すもので、配置は法起寺式と考えられている[1]。一部は現伽藍と重複しており、詳細は明らかでない。

  • 南門 - 南端に位置する。間口5間・奥行2間。天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されている。
  • 中門 - 間口5間・奥行2間。全体としては南門を上回る規模。南門との間には大井戸が見つかっている。
  • 塔 - 高さ約50メートルの七重塔
  • 金堂 - 現在の境内伽藍の下にあり、位置・規模は不明。
  • 講堂 - 金堂同様に位置・規模は不明。

備中国分尼寺跡

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備中国分尼寺 金堂跡

国分寺の東方に位置する。寺域は東西108メートル・南北216メートル。南北朝時代の戦火で焼失したとされるが、多くの礎石・遺構が残っている。

伽藍は以下に示すもの(南から)で、南北の軸上に配置されている。

  • 南門 - 小規模な3間1戸。
  • 中門 - 礎石が見られず、詳細は不明。
  • 金堂 - 良好な状態をとどめている。桁行5間・梁間4間。
  • 講堂
  • 尼坊または食堂

文化財

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重要文化財(国指定)

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  • 五重塔(建造物) - 1980年(昭和55年)12月18日指定[2]

国の史跡

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  • 備中国分寺跡 - 1968年(昭和43年)2月15日指定[2]
  • 備中国分尼寺跡 - 1922年(大正11年)10月12日指定[2]

岡山県指定文化財

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  • 重要文化財(有形文化財)
    • 備中国分寺跡建物群(建造物) - 1974年(昭和49年)5月31日指定[2]
      • 庫裏
      • 裏書院
      • 経蔵
    • 木造地蔵菩薩立像(彫刻) - 1955年(昭和30年)7月19日指定[2]

現地情報

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所在地

交通アクセス

周辺

脚注

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  1. ^ 『岡山県の地名』備中国分寺跡項。
  2. ^ a b c d e 指定文化財の一覧(総社市「総社観光ナビ」)。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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