修禅寺
修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。山号は福地山。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」で、略して福地山修禅寺と呼んでいる(宗教法人としての名称は「修禅寺」)。修善寺温泉街の中心にある。夏目漱石の『思ひ出す事など』(修善寺の大患)、岡本綺堂の『修禅寺物語』でも名高い。
修禅寺 | |
---|---|
所在地 | 静岡県伊豆市修善寺964番地[1] |
位置 | 北緯34度58分17.4秒 東経138度55分39.2秒 / 北緯34.971500度 東経138.927556度座標: 北緯34度58分17.4秒 東経138度55分39.2秒 / 北緯34.971500度 東経138.927556度 |
山号 | 福地山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 大日如来(重要文化財) |
創建年 | (伝)大同2年(807年) |
開基 | (伝)空海 |
正式名 | 福地山 修禅萬安禅寺[2] |
文化財 |
木造大日如来坐像(重要文化財) 宋版放光般若経 巻ニ十三、木造釈迦如来坐像(県文化財)ほか |
公式サイト | 福地山修禅寺 公式ウェブサイト |
法人番号 | 3080105001560 |
名称
編集地名は「修善寺」、寺名は「修禅寺」で、表記が異なるが、両方とも「しゅぜんじ」と読む。
初期には「桂谷山寺」と呼ばれており、鎌倉時代より「修善寺」と呼ばれていたが、鎌倉時代中期に臨済宗に改宗し「善」を「禅」に変更したとの説がある[3]。
歴史
編集807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していた。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われ、『延喜式』には「伊豆国禅院一千束」と書かれる程の寺院であった。
鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。また、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたことでも知られている。但し、範頼に関しては殺害を裏付ける史料が残っていないことや子孫が御家人として残っているという事実から生存説が取り沙汰されてもいる。
建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された。蘭渓道隆は、南宋の理宗から「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」という額を賜り、大陸にまで修禅寺の名を広めた。[4]
その後、1361年康安(元年)の畠山国清と足利基氏の戦乱の被害を受け、更に1409年(応永9年)の大火災で伽藍が全焼し荒廃したが、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)により、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興された。
文化財
編集- 重要文化財(国指定)
年中行事
編集所在地
編集- 静岡県伊豆市修善寺964
交通アクセス
編集脚注
編集- ^ 法人番号公表サイト 国税庁(閲覧:2018年4月11日)
- ^ “修禅寺概要”. 福地山修禅寺公式ウェブサイト. 2014年7月26日閲覧。
- ^ 日本地名の会『静岡県民も知らない地名の謎』、2014年
- ^ この寺額は1863年(文久3年)の火災で焼失した。
- ^ “国指定・登録文化財”. 伊豆市. 2022年7月24日閲覧。
- ^ a b “県指定 - 書跡典籍・古文書・考古資料・建造物”. 伊豆市. 2022年7月24日閲覧。
- ^ “寺宝 : 宋版放光般若波羅蜜経一巻”. 修禅寺. 2022年7月24日閲覧。
- ^ a b c 静岡県文化財保護課 (2013年12月1日). “静岡県内指定文化財リスト(エクセル:177KB)” (XLS). 静岡県内指定文化財調査. 2014年7月26日閲覧。