俣野 景孝(またの かげたか、1853年11月11日(嘉永6年10月11月[1])- 1911年明治44年)9月21日[2])は、明治時代の政治家官僚実業家衆議院議員(2期)。

経歴

編集

もと出羽庄内藩士[3][注 1]。藩校致道館に学んだ[2]戊辰戦争では少年隊に所属し出征した[3]1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると警視庁に奉職し、新撰旅団第八大隊副官として出動した[3]1879年(明治12年)2月、内務省属に転じ、大書記官の松田道之に従い同年6月、沖縄県属となった[3]

1880年(明治13年)宮古島役所長を経て、1881年(明治14年)1月、大阪府警部に転じ、署長、部長、副典獄などを歴任した[4]1885年(明治18年)8月、茨田交野讃良郡長に任ぜられた[4]。ほか、浪花紡績、摂河鉄道各社長を務めた[2]1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大阪府第6区から出馬し当選[2]。大阪派に属した[2]。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を2期務めた[2]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 『議会制度七十年史 第11』458頁では大阪府出身。

出典

編集

参考文献

編集