保科正殷
日本の江戸時代中期の大名。上総飯野藩3代藩主保科正賢長男で、飯野藩4代藩主
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄7年(1694年) |
死没 | 元文3年3月21日(1738年5月9日) |
改名 | 豊次郎・豊治郎(幼名)、正殷 |
別名 | 主膳(通称) |
戒名 | 徹山宗悟観了院 |
墓所 | 東京都杉並区和泉の大円寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総飯野藩主 |
氏族 | 保科氏 |
父母 |
父:保科正賢 母:瑞光院(森長俊の養女・森長継の娘) |
兄弟 | 正殷、正寿 |
子 | 養子:正寿、養女:(青山幸覃正室)、(保科正勝室) |
元禄7年(1694年)、第3代藩主・保科正賢の長男として江戸で生まれる(生年には元禄10年(1697年)説もある)。正徳4年(1714年)12月22日の父の死去により、正徳5年(1715年)2月16日に家督を継承した。しかし、幼少より病弱で藩政が執れず、嗣子も無かったため、享保3年(1718年)に弟で養子の正寿に家督を譲って隠居した。
元文3年(1738年)3月21日に江戸品川屋敷で死去した。享年45。
系譜
編集父母
養子、養女