何法倪
東晋の皇后
何 法倪(か ほうげい)は、中国東晋の穆帝司馬聃の皇后。本貫は廬江郡灊県。
何皇后 | |
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東晋の皇后 | |
在位 |
升平元年8月19日[1] - 升平5年9月14日 (357年9月19日 - 361年10月29日) |
全名 | 何法倪 |
別称 |
穆章皇后 永安皇后 |
出生 |
咸康5年(339年) |
死去 |
元興3年7月23日[2] (404年9月13日) |
埋葬 | 永平陵 |
配偶者 | 穆帝 |
氏族 | 廬江何氏 |
父親 | 何準 |
母親 | 孔氏 |
兄弟 | 何放、何惔、何澄 |
生涯
編集父は散騎常侍の何準。母は孔氏。永和初年に朝廷の実権者であった何充の姪に当たる。
升平元年(357年)8月、当時15歳で元服を行った穆帝に嫁ぎ、皇后に立てられた。穆帝との間に子供はいなかった。升平5年(361年)9月、穆帝の崩御に伴い哀帝が即位すると、穆皇后[3]と称され永安宮に居住した。元興2年(403年)、桓玄の簒奪により司徒府に移された際、法倪は乗っていた輿を太廟前で止め、大きく号泣して桓玄の怒りを買ったという。
その後、零陵県君に降格され、安帝と共に巴陵に放逐された。元興3年(404年)、劉裕の挙兵により安帝が復位すると、建康に帰った。法倪は歴代皇帝の陵墓に拝謁しようとしたが、変乱が完全に平定されなかったため実現できなかった。同年7月、66歳で崩じた。章と諡された。
脚注
編集伝記資料
編集- 『晋書』巻32 列伝第2 后妃下