何宗蓮
何 宗蓮(か そうれん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人。中華民国最初期に察哈爾(チャハル)都統をつとめた。晩年は起業や慈善事業に取り組んでいる。字は春江。
何宗蓮 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1864年(清同治3年)? |
死去: |
1931年(民国20年) 中華民国山東省歴城県 |
出身地: | 清山東省済南府平陰県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 何宗蓮 |
簡体字: | 何宗莲 |
拼音: | Hé Zōnglián |
ラテン字: | Ho Tzung-lien |
和名表記: | か そうれん |
発音転記: | ホー ゾンリェン |
事跡
編集北洋武備学堂を卒業した後に、定武軍に所属した。日清戦争に際しては海城を数百の兵で守備し、日本軍と激戦を繰り広げている。1895年(光緒21年)、袁世凱が創設した新建陸軍に所属した。以後、左翼歩兵第2営領官、統帯、北洋常備軍左翼翼長を歴任し、1904年(光緒30年)には第1北洋教練処総弁に就任する。1906年(光緒32年)、第1協統領官兼宿衛営統領兼甘粛省河州鎮総兵に昇進した。1907年(光緒33年)、第1鎮統制となり、さらに察哈爾副都統に異動した。[1][2]
1912年(民国元年)、察哈爾都統兼陸軍第1師師長に昇進した。1914年(民国3年)、将軍位を与えられ、引き続き察哈爾を統治する。民国4年(1915年)8月、大総統府侍従武官に異動したが、袁世凱が皇帝即位を画策すると何は引退して帰郷した。[3]同年中に済南で華興造紙廠や豊年面粉廠を創設している。[4]1918年(民国7年)、弼威将軍の位を授与された。[1][2]
1921年(民国10年)、山東省で大干ばつが発生し、50県以上が罹災した。このときに何は地元人士に呼びかけて山東省賑災公会(何が会長に就任)、紅十字会済南分会、災民救済会の設立準備を進めた。これにより義捐金数百万元が集まり、数十万人の民衆が救済されたという。[4]1928年(民国17年)の済南事件勃発後に済南市治安維持会会長を務めた。[3]1931年(民国20年)、山東省歴城県(現在の済南市歴城区)で病没。享年68。[1][2]
注
編集参考文献
編集- 「平陰鎮」-「人物簡介」山東省情網(山東省地方史志弁公室ホームページ)
- 来新夏ほか『北洋軍閥史』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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