佐脇良之

戦国時代の武将

佐脇 良之(さわき よしゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将前田利家の弟。織田信長小姓衆。佐脇は佐分とも書く[2]

 
佐脇良之
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 元亀3年12月22日1573年1月25日
別名 利之、通称:藤八郎、 藤八
主君 織田信長徳川家康
氏族 前田氏佐脇氏
父母 父:前田利春、養父:佐脇藤右衛門
母:長齢院(竹野氏)
兄弟 前田利久前田利玄前田安勝前田利家、女(寺西九兵衛室)、良之前田秀継、長久院(前田源介室、後に高畠定吉室)
大局/表局[1]
女(堀江九左衛門室)、圓智院(篠原一孝室)、久好(作右衛門、源助[3]
テンプレートを表示

略歴

編集

尾張国海東郡荒子[4]の土豪・前田利春(利昌)の五男として誕生する。佐脇藤右衛門與世の養子となった[5][6]

永禄元年(1558年)の浮野の戦いに参加し[7]、負傷しながらも強弓で知られた敵将の林弥七郎を討ち取る[5]

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、急遽出陣した信長に岩室重休長谷川橋介山口飛騨守加藤弥三郎と共に真っ先に従った[8]。永禄年間の初めに兄・利家と共に赤母衣衆となったとされている[9]が、『信長公記』では桶狭間の頃も御小姓衆に列せられている[5]ので、その少し後か。

清洲城の城代の1人となる[6]

永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、尺限廻番(さくきわまわりばん)衆を務めた[5][10]。その後、長谷川・山口・加藤と共に信長の勘気を被ったため勘当され、共に遠江国徳川家康の許に身を寄せた[5]

元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川ら3人と共に討死した[11][12][5]

妻子

編集

亡くなったときにすでに二女あり、妻は妊娠していたが、生まれた男子が作右衛門[13]で、長じて久好を名乗った。妻は寡婦になった後、浅井長政の娘である淀殿の乳母の一人になり、「大局」となった。大局は豊臣家滅亡後、金沢に至り、2代加賀藩主前田利常より200石を付与された。そして後に初代富山藩主となる利次元和3年生まれ)の乳母となり、今度は「表局」を称して、(前田家の)江戸邸で亡くなった[1]。長女は京極家家臣の堀江九左衛門に嫁いだ[1]

次女[14]は前田利家・まつ夫妻に養育され、長じて前田家臣の篠原一孝の正室となり、戦国女性の代表的な肖像画を妙法寺金沢市)に残した。

久好は利次に仕えて富山藩士となり、最初150石で、次いで600石、さらに加増され800石の扶持を受けた[1]

登場作品

編集
小説

脚注

編集
  1. ^ a b c d 加賀藩 1980, p. 75.
  2. ^ a b 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年、907頁。ISBN 4797105569 
  3. ^ 妻は森甚之丞の娘[2]
  4. ^ 愛知県名古屋市中川区荒子。
  5. ^ a b c d e f 谷口 1995, p. 194.
  6. ^ a b 加賀藩 1980, p. 74.
  7. ^ 太田牛一信長公記』 巻首 「浮野合戦の事」
  8. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」
  9. ^ 高木文書
  10. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
  11. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「味方か原合戦の事」
  12. ^ 負傷し、その傷がもとで没したともいう。
  13. ^ 『尾張群書系図部集』にある源助か。
  14. ^ 圓智院妙浄。

参考文献

編集