佐竹義生
明治時代の華族。佐竹義堯の次男。母は大塚氏(側室)。佐竹宗家33代。侯爵
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佐竹 義生(さたけ よしなり、慶応3年7月7日〈1867年8月6日〉 - 大正4年〈1915年〉2月22日)は、明治時代の華族。佐竹義堯の次男。生母は大塚氏(側室)。佐竹宗家33代当主。爵位は侯爵。幼名、鈷丸。号は秋竹。
生涯
編集明治5年(1872年)10月14日、義兄佐竹義脩の養子となる。明治11年(1878年)1月、従五位を与えられる。その後、従二位まで昇る。明治14年(1881年)12月、父義堯の嫡子となる。明治15年(1882年)、学習院初等学科に入学する。明治17年(1884年)12月、父義堯の死去により、家督を相続する。明治25年(1892年)6月1日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任[1][2]。侯爵であることから、死亡するまで在職した。同年、久保田城の公園が秋田県へ移管された際に「千秋公園」と名づけた。明治30年に創立された秋田県育英会の総裁に就任した[3]。田沢疏水事業にも尽力した。大正4年(1915年)2月21日に従二位に叙せられ、翌日に没した。家督は義春が継いだ。
家族
編集栄典
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集参考文献
編集- 秋田県公文書館HP
- 第36回帝国議会会議録(貴族院議員の異動)
関連項目
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日本の爵位 | ||
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先代 佐竹義堯 |
侯爵 佐竹家(宗家)第2代 1884年 - 1915年 |
次代 佐竹義春 |