佐竹 義格(さたけ よしただ)は、江戸時代中期の大名出羽国久保田藩の第4代藩主佐竹氏第22代当主。通称は源次郎。官位従四位下侍従大膳大夫

 
佐竹義格
佐竹義格
時代 江戸時代中期
生誕 元禄7年12月11日1695年1月25日
死没 正徳5年7月19日1715年8月17日
改名 千代助・千代丸(幼名)、義格
別名 源次郎(通称)
戒名 天祥院実厳円真
墓所 秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺
官位 従四位下侍従大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継
出羽久保田藩
氏族 佐竹氏
父母 佐竹義処:智清院
兄弟 義苗相馬叙胤義格藤堂高通養女、松平宣富正室、養真院、幻体院ら
正室:なし
側室:光全院
養子義峯
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生涯

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第3代藩主・佐竹義処の3男として誕生。母は布施氏(智清院)。幼名は千代助、千代丸。

元禄13年(1700年)11月15日、父・義処の嫡子となった。兄・義苗の早世に伴う措置であった。元禄16年(1703年)4月1日、5代将軍・徳川綱吉御目見する。同年8月12日、義処の死去により家督を相続した。宝永5年(1708年)12月18日、従四位下侍従、大膳大夫に叙任する。正徳元年(1711年)4月13日、初めてお国入りする許可を得る。正徳5年(1715年)7月19日、久保田城において死去、享年22。法号は天祥院実厳円真。墓所は秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺

宝永6年(1709年)、藩文所を秋田史館と改称する。また、父の時代に破綻した藩財政再建のために植林を奨励し、さらには救貧対策にも尽力するなど、若くしてその才能を見せたが、江戸屋敷の火災や元禄地震による天災が相次いだ上、義格自身も死去したために、改革は失敗に終わった。

正室はいない。なお、浅野綱長の娘と婚約していた。側室に平賀氏(光全院)。一男あり。長男は早世したため、養嗣子・義峯が継いだ。

系譜

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  • 父:佐竹義処(1637-1703)
  • 母:智清院 - 布施氏
  • 正室:無
  • 側室:光全院(1698-1731) - 平賀氏
    • 男子:源之助(1714-1714) - 夭折
  • 婚約者:浅野綱長の娘
  • 養子

偏諱を受けた人物

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