佐波 隆秀(さわ たかひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

 
佐波隆秀
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年
死没 文禄元年(1592年
官位 常陸介
主君 大内義隆毛利元就隆元輝元
氏族 百済系三善氏支流佐波氏
父母 父:佐波興連
兄弟 隆秀、男子、松田元行、女(宍道隆慶正室)
恵連、女(熊谷元直室)
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出自

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佐波氏石見国国人三善清行の末裔で、子孫の三善義連が石見に下向し、邑智郡佐波荘を領して佐波氏を称した。赤穴氏も同族である。その後は国人領主として大内氏に従っていた。

略歴

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大永3年(1523年)、佐波興連の子として誕生。

天文20年(1551年)、大内義隆陶晴賢ら重臣の謀反(大寧寺の変)で横死した際、当主であった従兄・佐波隆連も主君と共に討死した。そのため急遽隆秀が後継者となったが、佐波家中には隆秀の相続に反対する動きもあり、隆秀は嫡子・恵連に隆連の娘を娶らせ、恵連の成人まで家督を継ぐという条件で家督を継承することとなる。弘治2年(1556年)には毛利元就に帰属して家臣となり、その後は一族の離反者を討伐し、豊前国への侵攻時にも敵の大将・長野弘勝を討ち取る等、各地を転戦して武功を挙げた。

文禄元年(1592年)から始まる豊臣秀吉朝鮮出兵の際には、主君・毛利輝元から広島城の留守居を命じられている。同年に死去、恵連が跡を継いだ。

慶長10年(1605年)、熊谷元直や天野元信一族が萩城築城の遅れを口実に粛清された際、隆秀の子とも孫ともされる佐波善内も粛清されている。