佐々木精一郎
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佐々木 精一郎(ささき せいいちろう、1945年9月2日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。
1960年代後半から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーで、1968年メキシコシティーオリンピックに男子マラソン日本代表として出場した。佐賀県鳥栖市出身。
人物・来歴
編集中学・高校時代
編集佐々木とマラソンの出会いは佐賀県の鳥栖市立田代中学校時代。「1年か2年の時(本人談)」に校内マラソン大会で10位に入り、市内の中学駅伝大会の代表選手になったことがきっかけだった。当時同校には陸上部がなく、バレー部顧問の教諭の指導を受けた[1]。
高校は佐賀県立鳥栖工業高等学校に進学。陸上部に入り、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)、国体で上位入賞する[1]他、2年・3年時に全国高等学校駅伝競走大会に出場。2年連続で"花の1区"を担当し、2年時(第13回大会)は32分50秒で区間25位、チーム総合32位にとどまった[2]が、3年時(第14回大会)には1位と3秒差の30分03秒で区間2位となり、チーム総合10位という当時の同校最高順位に大きく貢献した[3]。
実業団入り・初マラソン
編集1964年、高校を卒業後、九州電工(現・九電工)に入社。1965年の金栗記念熊日30キロロードレース [4]では、弱冠19歳ながらマラソン前世界記録保持者の寺沢徹を相手に熾烈な トップ争いを展開して、寺沢から6秒遅れの2位に入賞する[1]。
20歳でフルマラソンに初挑戦した第15回別府毎日マラソン(現・別府大分毎日マラソン)(1966年2月13日)では2時間15分32秒で4位に入賞[5]。4位までの4選手(寺沢徹、岡部宏和、君原健二、佐々木)が2か月後のボストンマラソンの出場権を得た[1]。
1966年4月19日正午、ボストンマラソンがスタート。参加者は415人。63年、64年大会の優勝者のベルギーのオーレル・バンデンドリッシュは飛行機に乗り遅れたため不参加となった[6]。向かい風の中、この日本人4選手のデッドヒートとなり、レース終盤の「心臓破りの丘」を越えた残り800メートル地点で君原が抜け出し、2時間17分11秒で優勝。佐々木が2時間17分24秒で2位。寺沢・岡部が後に続き、上位4位までを日本勢が独占するという快挙を演出した[1][7]。
日本記録樹立とメキシコ五輪出場まで
編集翌年の第16回別府毎日マラソン(1967年2月5日)では、2時間13分38秒で君原健二から5秒遅れの2位。12月3日に開催された第21回国際マラソン選手権(現・福岡国際マラソン)でも2位に入った。この大会では、優勝したデレク・クレイトン(オーストラリア)とともに重松森雄の持つ世界最高記録(2時間12分00秒)を更新し、当時の日本最高となる 2時間11分17秒0[8]を記録した。クレイトンは人類初の2時間10分を切る世界新記録(2時間9分36秒4)で優勝したが、佐々木は後方集団からひとり追い上げ、28km地点でクレイトンに追いつき34kmまで並走する健闘を見せた[9]。
続く第17回別府毎日マラソン(1968年2月4日)では 2時間13分23秒の大会新記録でマラソン初優勝を飾り、翌年のメキシコシティーオリンピック代表をほぼ手中にした。安定して好記録を出す22歳は若手のホープとしてメキシコでの活躍が期待された。
メキシコ五輪出場から現役引退まで
編集若さと勢いでメキシコシティーオリンピックでの活躍が期待された佐々木であったが、五輪レース本番では30㎞から先頭集団より遅れ始め、35㎞付近で棄権するという結果に終わった。このことについて後年佐々木は、五輪代表選考をめぐるごたごた[10]や、自らの不摂生、「優勝しなければ」というプレッシャーなど様々な理由が重なって調整不足となった、と述懐している[1]。
これを境に佐々木のマラソン人生は転機を迎える。1970年には九州電工を退社して神戸製鋼に移籍。実業団駅伝などで選手生活を続けたが、マラソンでは五輪以前の輝きを取り戻すことなく、1978年に33歳で現役を引退した[1]。
指導者として
編集現役引退後も神戸製鋼に残り、監督となって指導者への道を歩み始めた。さっそく1980年モスクワオリンピックの5000メートル/1万メートル代表に喜多秀喜と森口達也の2選手が選出される成果を出したが、日本が不参加を決定したことに伴い、教え子の五輪出場は幻に終わる。[1]。
1992年には、新たに発足した天満屋(岡山市)女子陸上部の監督になり、女子マラソンの指導という新天地へ向かう。その後総監督となり、1995年世界陸上競技選手権大会マラソン代表の小松ゆかりや2000年シドニーオリンピックマラソン代表の山口衛里などを育てた。更に同社に市民参加のクラブチームを開設し、市民ランナーのマラソン挑戦をサポートすることにも取り組んだ[11]。
また、自社の指導のみならず、日本陸連強化本部の女子長距離・マラソン部長も務め、横浜国際女子駅伝や、国際千葉駅伝など数々の大会で日本女子チームの監督を務めた。
2000年4月はサニックス陸上部副監督に就任。同部が廃部となった後は指導者の一線から身を引き、2007年には大分県九重町の飯田高原[12]に妻と2人で移住した。ここは佐々木が現役時代の1966年6月に「朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)強化合宿」で、日本陸上競技連盟総監督の金栗四三の指導を受けた地でもある[13]。
主なマラソン成績
編集- 自己最高記録…2時間11分17秒(1967年12月)
年月日 | 大会名 | タイム | 順位 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1966.2.13 | 別府毎日マラソン(別大毎日) | 2:15:32 | 4位 | 初マラソン |
1966.4.19 | ボストンマラソン | 2:17:24 | 2位 | 君原健二から13秒遅れの2位 |
1967.2.5 | 別府毎日マラソン(別大毎日) | 2:13:38 | 2位 | 君原健二から5秒遅れの2位 |
1967.12.3 | 国際マラソン選手権(福岡国際) | 2:11:17 | 2位 | 世界記録更新、日本最高記録 |
1968.2.4 | 別府毎日マラソン(別大毎日) | 2:13:23 | 優勝 | 大会新記録 |
1968.10.20 | メキシコシティーオリンピック | なし | 途中棄権 | 35kmで途中棄権 |
1971.2.7 | 別府毎日マラソン(別大毎日) | 2:18:05 | ||
1972.12 | 防府読売マラソン | 2:20:47 | 優勝[14] |
上記のほか、鹿島祐徳ロードレース大会(当時は20kmレース)で第16回大会(1967年)から3連覇している。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h “マラソンとともに歩んだ半世紀/佐々木精一郎”. 鳥栖市情報マガジン Nest Vol.9. 鳥栖市総務部秘書広報課 (2000年9月). 2019年10月5日閲覧。
- ^ “1962(昭和37)年 第13回男子大会記録”. 全国高校駅伝. 全国高校駅伝事務局. 2019年10月5日閲覧。
- ^ “1963(昭和38)年 第14回男子大会記録”. 全国高校駅伝. 全国高校駅伝事務局. 2019年10月5日閲覧。
- ^ “金栗記念・熊日30kmロードレース”. 熊本国府高等学校. 2019年10月5日閲覧。
- ^ “大毎ニュース 760 寺沢驚異の4連勝・別府毎日マラソン”. 放送ライブラリー. 公益財団法人 放送番組センター. 2019年10月5日閲覧。
- ^ 「ボストンマラソン 日本、四位まで独占」 『中日新聞』1966年4月20日付夕刊、D版、1面。
- ^ “大毎ニュース 770 日本4位まで独占・ボストン・マラソン”. 放送ライブラリー. 公益財団法人 放送番組センター. 2019年10月5日閲覧。
- ^ この記録は1970年の第24回国際マラソン選手権(現・福岡国際マラソン)で宇佐美彰朗に更新されるまでの3年間 日本最高記録であった。
- ^ “福岡国際マラソンプレーバック 1967 第21回大会”. 福岡国際マラソン公式サイト. 2019年10月5日閲覧。
- ^ 佐々木の代表選出は当確であったが、最後の3人目を君原健二と采谷義秋のどちらにするかで紛糾した。この煽りを受け選考レースや調整日程に変更が生じたことが影響したとも言われている[誰によって?]。
- ^ “「最前線の模索」これからの女子長距離(4)佐々木精一郎(天満屋女子陸上部総監督)”. 第16回 全国都道府県対抗女子駅伝. 京都新聞社. 2019年10月5日閲覧。
- ^ “飯田高原・マラソンの歴史”. 大分県 九重町・玖珠町公式サイト/九重・玖珠スポーツ合宿案内. 2019年10月5日閲覧。
- ^ “『九重に金栗のサイン「いだてん」主役、指導者で訪問』”. 大分合同新聞 大分県内ニュース (2019年1月26日). 2019年10月5日閲覧。
- ^ “男子歴代上位入賞者” (PDF). 防府読売マラソン. 2019年10月5日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
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