伊達行朝
日本の南北朝時代の武将 (1291-1348)
伊達 行朝/伊達 行宗(だて ゆきとも/だて ゆきむね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。後年、行宗(ゆきむね)に改称した[4]。官位は従四位下・宮内大輔。伊達氏7代当主。南朝側の武将として各地を転戦した。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 正応4年(1291年) |
死没 | 正平3年/貞和4年5月9日(1348年6月6日) |
改名 | 行朝(初名)→行宗[1] |
別名 | 藤原朝村、伊達入道[2][3] |
諡号 | 念海公 |
官位 | 従五位下左近将監、従四位下宮内大輔、贈従三位 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条高時→後醍醐天皇 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達基宗 |
妻 | 田村氏娘・静照院 |
子 | 宗遠、行資、宗政? |
概要
編集元弘元年(1331年)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内への討伐軍に加わった[4][3]。『太平記』などには「伊達入道」と記されており[3]、諸根樟一らはこれを行朝に比定している[2][5]。
元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、同国の式評定衆の一人として奥羽行政の中枢に参画した。
建武2年(1335年)に顕家が足利尊氏を追って西上した際には、奥羽諸将と共に従軍し、延元元年(1336年)に帰国した。この留守の間に北朝方の勢力が盛んになり、多賀国府が脅かされると、国府は伊達氏の勢力圏にある霊山に移った。
延元2年(1337年)には、惨敗に終わる北畠顕家の二回目の西上にも従った。顕家の死後は常陸国伊佐郡の伊佐城に一族の中村経長(中村城主)らと共に楯籠ったが、高師冬に攻められ行朝と経長は囲いを突破し自領へ降りた[6]。
人物
編集系譜
編集注:系譜には疑問点も多い。詳細は伊達宗遠を参照のこと。