伊達義基
伊達 義基(だて よしもと)は、江戸時代後期の武士。陸奥国仙台藩一門第四席・涌谷伊達家11代(亘理氏29代)当主。
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 文化5年(1808年) |
死没 | 天保10年6月5日(1839年7月15日) |
改名 | 虎松・源次郎(幼名)、義基 |
別名 | 兵庫、安芸(通称)、桂園(号) |
墓所 | 宮城県遠田郡涌谷町の見龍寺 |
主君 | 伊達斉宗、斉義、斉邦 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 涌谷伊達氏 |
父母 | 伊達村清 |
兄弟 | 義基、千熊 |
妻 | 但木直行娘 |
子 | 邦隆、亘理隆教 |
生涯
編集文化5年(1808年)、伊達村清の子として誕生。幼名は虎松、源次郎。
文政2年(1819年)5月25日に仙台藩10代藩主・伊達斉宗が亡くなると、田村顕嘉(後の伊達斉義)や登米家・伊達宗充の子である幸五郎(後の伊達斉邦、当時2歳)と共に当時12歳の源次郎もその後継者候補となっていたが、斉宗との血統の近さと年齢から顕嘉(斉義)が藩主となった。のちに源次郎は斉義から偏諱を受けて、義基と名乗っている。
文政3年(1820年)、父・村清の死去により家督を相続し、涌谷邑主となる。文政11年(1828年)1月28日、新藩主・伊達斉邦[1]の家督相続御礼言上の際に、江戸城で11代将軍・徳川家斉に拝謁を賜る。天保3年(1832年)から翌天保4年(1833年)、名鰭沼の排水のため、藩営で青木沢の掘削工事を行い、未開墾だった南郷谷地の新田開発を実現した。天保9年(1838年)、家臣や領民の教育のために、郷学学習館(後に月将館と改称)を設立する。
天保10年(1839年)6月5日、死去。享年32。
脚注
編集- ^ 1月23日に斉義が没する前にその養子となっていた。
偏諱を受けた人物
編集出典
編集- 『仙台人名大辞書』
関連項目
編集
|
|
|