伊藤盛景
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名
伊藤 盛景(いとう もりかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃舟岡城[3]主、のちに美濃大垣城主。豊臣家の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長四年巳亥[要出典] |
改名 | 祐盛 → 盛景 |
別名 | 祐盛[1][2]、祐典[要出典]、通称:彦兵衛[1][2]、長門守 |
官位 | 従五位下長門守 |
主君 | 豊臣秀吉 |
氏族 | 美濃伊藤氏 |
父母 | 父:伊藤祐重 |
子 | 盛正 |
経歴
編集初名は祐盛(すけもり)[2]。豊臣秀吉に仕えて、従五位下長門守に叙任された[2]。
天正18年(1590年)の小田原の役に従軍[1][2]。秀吉本陣の前備衆の一つで320人を率いた[4]。3万石に加増され、美濃大垣城を与えられた[2]。
天正20年(1592年)の肥前名護屋城普請と、文禄3年(1594年)の伏見城普請工事に参加[2]。4千石加増[要出典]。その間の文禄の役では、名護屋在陣衆として1,000人の兵を率いて[5]滞陣したが、出征はしなかった。
文禄4年(1595年)、豊臣秀次切腹事件に連座して叱責処罰を受けた[2]。この頃、加増あって知行3万4千石[1][2]。
慶長元年大垣城に初めて3層の天守閣を造立す。
脚注
編集参考文献
編集- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、24頁。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、110頁。ISBN 4404017529。
- 『大垣市史』[要文献特定詳細情報]195頁、『大垣藩主歴代記』、神戸町『信願寺古文書』