伊東長とし
伊東 長𫡰(いとう ながとし、伊東長。「とし」の表記は下記の特記事項参照)は、備中国岡田藩10代(最後の)藩主。第8代藩主・伊東長寛の十五男・伊東長生の次男。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保15年4月13日(1844年5月29日) |
死没 | 明治33年(1900年)12月21日) |
墓所 | 東京都文京区向丘の高林寺 |
官位 | 従五位下・播磨守、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 備中岡田藩主 |
氏族 | 伊東氏 |
父母 |
伊東長生、乾氏 伊東長裕 |
妻 |
葉室長順娘 大橋重助娘・千重子 |
子 | 久実、綾子、晴村 |
特記 事項 |
「とし」は「卆(卒の異体字)+(十の下に)百+千」という漢字 (「壽(=寿)」の異体字の一つ) |
略歴
編集万延元年(1860年)12月18日、従兄で第9代藩主の長裕が死去したため、その養子となって家督を継いだ。文久元年(1861年)10月1日、将軍徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下・播磨守に叙任した。
慶応4年(1868年)1月23日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。戊辰戦争では岡山藩と共に新政府軍に与して、幕府軍に与した備中松山藩の討伐を担当する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により岡田藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官となり、東京に移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。
明治33年(1900年)12月21日に死去した。享年57。
系譜
編集脚注
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (岡田)伊東家初代 1884年 - 1900年 |
次代 伊東久実 |