伊勢華
幕末の長州藩士
伊勢 華(いせ さかえ、1822年(文政5年[1][2][3]) - 1886年(明治19年)2月1日[2][3][注 1])は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。倉敷県知事。宮内省京都支庁長官。名は華、諱は氏華、字は君韡、通称は織之助、瀬兵衛、(北条)新左衛門、変名は小淞、秋航、管田[2]。旧姓は北条[2]。
経歴
編集北条瀬兵衛氏輔の長男として長門国萩小松江に生まれる[2]。1830年(天保元年4月)家督を相続し、1835年(天保6年)緒方十郎左衛門に礼式を学ぶ[2]。1837年(天保8年)藩校明倫館へ入学し、1842年(天保13年)廟司役、1845年(弘化2年)書物方役、1848年(嘉永元年)退館して蔵元検使となる[2]。
1852年(嘉永5年)手廻組に加えられ江戸方大検使に転じ、1854年(安政元年)海防用務を以て相州備場へ差遣、ついで帰萩し大組に列せられる[2]。1855年(安政2年)大坂検使、1857年(安政4年)江戸方用所役兼地方所帯方役、1859年(安政6年)西洋学所に入り、1860年(万延元年)当職手元役、1863年(文久3年)蔵元役で大坂詰となり、1864年(元治元年7月)帰国、同年11月に辞職した[2]。
1865年(慶応元年2月)表番頭格として所帯方役、1866年(慶応2年2月)手元役、同年5月、伊勢と改姓、10月、郡奉行役を兼務した[2]。1867年(慶応3年2月)上々勘算用聞役として討幕軍出征の輜重会計を監督した[2]。
1868年(明治元年7月)新政府に召されて徴士・奈良府判事、1869年(明治2年7月)倉敷県知事に任じたが、1871年(明治4年)窮民救助方に専断の処置があったため謹慎を命ぜられ、1872年(明治5年)退官帰国して文筆生活を送る[2]。
栄典
編集- 位階
親族
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『国民過去帳 明治之巻』216頁では明治19年1月31日没。
出典
編集参考文献
編集- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年 。
- 日本歴史学会 編『明治維新人名事典』吉川弘文館、1981年。ISBN 9784642031141。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。