伊勢(いせ)は、越後国戦国大名上杉謙信と深い仲にあったとされる女性。謙信の事績を伝える軍記物松隣夜話』にその名が見られる。伊勢御前とも書かれる[1]

伝承

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『松隣夜話』によれば、上野国「鴻の平」の武士・千葉采女佐[注釈 1]の娘で「無双の女房」だったという。天正3年(1575年)頃、謙信は敵方の武士の娘である伊勢を召し出し[注釈 2]、春には平井城の庭園で共に遊覧するなど懇ろな関係にあった。しかし謙信と伊勢の関係を快く思わなかった柿崎景家が直江山城守と宇佐美駿河守[注釈 3]に働きかけたため、謙信は伊勢との交流を断つことになった。落胆した伊勢は翌年正月、青龍寺という寺で出家してしまった。さらに翌年春、伊勢は世話人の老尼に連れられて平井城を訪れたが、謙信とのことが思い出されて泣き腫らすばかりで、帰るころになって「諸共に 見しを名残の 春ぞとは 今日白川の 花の下かげ」という和歌をしたためた[注釈 4]。その後も伊勢は懊悩し続け、同年9月に19歳で死去したという[2][6]

『松隣夜話』や『野史』は、天正5年(1577年)に柿崎景家が謙信に無断で織田信長に通交したために討たれたとしているが、実は景家が謙信と伊勢との離別を謀ったことに対する報復だったのだと記している[注釈 5][9][10]。景家討伐の後、かねてより謙信の体調の衰えを危惧していた甘粕景持は「敵方の娘であっても、恩愛や夫婦の契りはそのような事に左右されない」と主張し、直江・宇佐美ら他の重臣たちと謀って、伊勢を呼び戻して還俗させ、その伯父にあたる山口但馬の養女として謙信に輿入れさせようとした。そこで山口但馬は伊勢が籠居する青龍寺を尋ねたが、伊勢の世話人だった老尼より既に伊勢が病死していることを聞かされ、泣く泣く法要を執り行って越後へ戻った。その後謙信の家臣たちは青龍寺や伊勢の実家に弔いの品々を贈ったという[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ 桑田忠親は千葉采女の素性を平井城主としている[2]。通常、平井城は天文21年(1552年)城主の上杉憲政越後へ逃れた後は廃城になっていたとされる[3]
  2. ^ 桑田忠親は、伊勢姫は千葉采女が謙信に降伏した際に提出した人質だったとしている[2]。なお『松隣夜話』は「如何なる伝手にや」と理由を不明としている[4]
  3. ^ 通常、直江山城守は直江兼続、宇佐美駿河守は宇佐美定満定行)を指すが、いずれも同時期の謙信の重臣ではない。
  4. ^ 伊勢が和歌を詠んだ平井城の庭園は、かつて城主だった上杉憲政白河の関に模して造らせたものだったという[5]
  5. ^ 柿崎景家の死については上杉謙信の誅殺だったとする説が知られるが、実際は病死だったとする有力な反証がある[7]。ところが、近年になって今度は謙信が養子の景虎を廃して別の養子である景勝を後継者に擁立しようとしているのを知った景家が景虎を擁立するクーデターを起こして失敗したとする新説が出されている[8]

出典

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  1. ^ 『上杉史料集』, p. 228.
  2. ^ a b c 桑田 1977, p. 124.
  3. ^ 尾崎 1987, § 平井城跡.
  4. ^ 『上杉史料集』, p. 226.
  5. ^ 『上杉史料集』, p. 229.
  6. ^ 『上杉史料集』, pp. 224–229.
  7. ^ 『柿崎町史』, pp. 766–757.
  8. ^ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」初出:『上越市史研究』10号、2004年/所収:前嶋敏 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第三六巻 上杉謙信』(戒光祥出版、2024年)ISBN 978-4-86403-499-9)。2024年、P146-148・154-156.
  9. ^ 『上杉史料集』, p. 219.
  10. ^ 『柿崎町史』, p. 762.
  11. ^ 『上杉史料集』, pp. 226–229.

参考文献

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  • 桑田忠親 著「上杉謙信」、桑田忠親 編『戦国の英雄』筑摩書房〈日本史の人物像〉、1977年。 
  • 尾崎喜左雄 編『群馬県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1987年。ISBN 978-4-582-49010-7 
  • 柿崎町史編纂会 編『柿崎町史』名著出版、1973年。 
  • 『上杉史料集』 下、井上鋭夫(校注)、人物往来社〈第二期戦国史料叢書〉、1967年。