仙石政辰
仙石 政辰(せんごく まさとき)は、但馬国出石藩3代藩主。出石藩仙石家6代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保8年8月21日(1723年9月20日) |
死没 | 安永8年8月24日(1779年10月3日) |
改名 | 陽之助(幼名)、政辰 |
戒名 | 実相院殿諦巌了真大居士 |
墓所 | 兵庫県豊岡市出石町東條の宗鏡寺 |
官位 | 従五位下、越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治 |
藩 | 但馬出石藩主 |
氏族 | 仙石氏 |
父母 |
父:仙石政因、母:長音院 養父:仙石政房 |
妻 | 増子(仙石政房の娘) |
子 |
政直、久保、明子、十子、井上正広正室 養子:政芳、久行 |
生涯
編集享保8年(1723年)8月21日、出石藩仙石家の分家で2千700石の旗本であった仙石政因の7男として生まれた。政因の父・政勝は出石藩の初代藩主・政明の補佐役を務めた。政勝は第2代藩主・政房の生母の父であることから、政辰は政房の母方の従弟にあたる。
享保17年(1732年)8月3日、政房の婿養子となる。享保20年(1735年)に養父が死去したため、家督を継いだ。藩政では財政難のため、宝暦2年(1752年)に上米を行なっており、学問の振興にも努めた。しかし明和5年(1768年)11月20日に強訴が行なわれるなど、藩政は混乱している。また寛保二年江戸洪水のために西国大名の手伝い普請に参加した。
安永8年(1779年)8月24日に出石で死去した。享年57。はじめ養子に迎えていた政芳(政房の六男)は早世したため、跡を婿養子の久行が継いだ。