今沢義雄
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今澤 義雄(いまさわ よしお、1858年11月29日(安政5年10月24日) - 1941年(昭和16年)12月5日)は、日本の武士(岡崎藩士)、日本陸軍の軍人。陸軍少将、従四位・勲三等・功三級。
今澤 義雄 | |
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生誕 |
1858年11月29日 三河国岡崎(現 愛知県 豊田市) |
死没 |
1941年12月5日(83歳没) 宮城県 仙台市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1881 - 1910 |
最終階級 | 陸軍少将 |
戦闘 |
日清戦争 日露戦争 旅順攻囲戦 |
概観
編集日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞攻略のための攻城兵器として、第3軍 攻城砲兵司令部 攻城工兵廠にて手榴弾、迫撃砲等を開発、日本軍勝利に貢献した。
経歴
編集- 1858年(安政5年)10月 岡崎藩士 今澤巌の6男として生まれる。
- 1875年(明治8年)6月、陸軍幼年学校入学。
- 1881年(明治14年)12月、工兵少尉任官。
- 1883年(明治16年)6月、陸軍士官学校(旧4期)工兵科を卒業。仙台鎮台工兵第一中隊小隊長となる。
- 1885年(明治18年)5月、工兵中尉に昇進し東京鎮台 工兵第一大隊小隊長となる。
- 1891年(明治24年)10月、工兵大尉に昇進し陸軍砲工学校教官に就任。日清戦争開戦に伴い、1894年(明治27年)7月、第6師団後備工兵第一中隊長として出征。同11月 流氷により破壊された鴨緑江の軍橋を応急の船橋で復旧する。[1]
- 1897年(明治30年)10月、工兵少佐に昇進し陸軍砲工学校教官に帰任、同時に海軍大学校教官(築城学)を兼務する。
- 1901年(明治34年)10月、工兵中佐に昇進し陸軍技術審査部審査官に就任。日露戦争開戦に伴い、1904年(明治37年)5月、第3軍攻城砲兵司令部攻城工兵廠長として出征。旅順攻囲戦で手榴弾、迫撃砲などを開発。
- 1905年(明治38年)3月、陸軍大佐に昇進し工兵部長に就任。
- 1906年(明治39年)1月、陸軍技術審査部工兵部長となる。同年4月、旅順表忠塔建設委員拝命。
- 1910年(明治43年)11月、陸軍少将に昇進、同時に予備役となる。
- 1918年(大正7年)4月1日 - 退役[2]
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1885年(明治18年)7月25日 - 従七位[3]
- 1892年(明治25年)1月12日 - 正七位[4]
- 1902年(明治35年)2月20日 - 正六位[5]
- 1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[6]
- 1910年(明治43年)
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[9]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
主な功績
編集兵器開発
編集第3軍攻城工兵廠で開発した兵器は次のとおり。
- 手榴弾[11]:竹製、空缶製、ブリキ製
- 迫撃砲[12]:チーク材製の発射筒から1kg及び1.5kgの弾丸を発射する。
- 転送爆発機:鉄板製防楯の裏に爆薬100kgを詰めたビール樽を車輪として取り付け点火して敵の壕内に落下・爆発させるもの。
- 代用隠顕燈:夜間攻撃用塹壕灯光器
- 改良鉄条網切断鋏:高圧電流が流れている鉄条網を切断する絶縁された鋏
- 鉄条網爆破具:2つ割りにした竹に火薬を詰め鉄条網の上で爆発させこれを切断する器具
- 伏射防楯:携帯防楯を伏射状態で使用できるように改良したもの。
- 膝射防楯:携帯防楯を膝射状態で使用できるように改良したもの。
- 対壕用防楯:塹壕防御用防楯
- 白熱点火器応用:白熱電線を使って100m四方に配置した地雷を同時に爆破する装置
- 手榴弾防網:敵の手榴弾から防御する金網
- 擲弾防楯:薄い鉄板を塹壕上に被せ手榴弾を塹壕の後ろに落として爆発させるもの。
- 銃眼防楯:携帯防楯に銃眼を付けた改良型
- 転送防楯:大きな防楯に車輪を付け押し進む防御装置
戦闘教令等
編集- 『第一期攻略計画案(望台攻略)』 明治37年(1904年)8月28日[13]
著作
編集脚注
編集- ^ 11月30日早朝に破壊されたこの軍橋は、対岸で戦闘中の第1軍への兵員・弾薬・食糧等を補給する重要な兵站路の拠点であった。これを12月2日正午までに復旧させた。
- ^ 『官報』第1698号、大正7年4月4日。
- ^ 『官報』第677号「叙任」1885年10月1日。
- ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
- ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
- ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 生前今澤少将はかう語っていた。「当初は竹筒にダイナマイトを詰めて投げることを計画したが乃木希典司令官から「それは兵器ではないからいかぬ」と許可されなかった。その後、敵が臼砲の砲弾に点火して投げてくるようになったため、無理に許可をお願いして竹製手榴弾を使うこととなった。竹はそのうち枯渇し缶詰の空缶に詰めたが遂にブリキで作った。」1941年12月6日付 河北新報記事
- ^ 迫撃砲の発想は彼の出身地 三河国(現在の愛知県東部)の手筒花火が原点といわれている。軍艦の甲板に用いるチーク材で短い花火筒を作り射角45°に設置し1kg及び1.5kgの弾丸を発射できるようにした。
- ^ 攻城工兵廠陣中日誌 明治37年8月28日の記録に「本日 軍工兵部長ニ第一期攻略計画案(望台攻略)ヲ提出ス左の如シ 一、突撃準備 二、砲撃 三、突撃 四、作業・・」と記述があり正攻法(攻撃築城)案提出が記載されている。なお、通説である「 8月30日 、第3軍参謀井上幾太郎工兵少佐(後陸軍大将)は参謀副官 宮原国雄工兵大尉(後陸軍中将)と共に、わずか一昼夜で戦闘教令を作成」というのは間違い。攻城工兵廠陣中日誌及び佐藤鋼次郎『旅順を落とすまで』の記録から計画立案~決定までの経緯は次のとおり。
- 8月25日 工兵部長(工兵部長榊原昇造大佐は陸軍幼年学校同期)へ攻撃方法転換の意見書を提出し、工兵部長から新攻撃方法検討の依頼を受ける。同日夜、自ら占領砲台の偵察を実施。
- 8月26日 柳樹房軍司令部で工兵部長から攻撃工事準備のための材料収集の命を受ける。
- 8月27日 攻撃作業計画立案のため部下の大崎峯登工兵大尉へ占領砲台偵察を指示。 同日、参謀 佐藤鋼次郎中佐(同郷人、後陸軍中将)及び宮原国雄工兵大尉が来廠し望台攻略についての説明を実施。佐藤中佐はその後、柳樹房軍司令部で軍司令官へ作戦転換には戦闘教令作成が必要と説明。
- 8月28日 大崎大尉の偵察結果を加味し望台攻略計画案を工兵部長に提出。砲兵司令部に大崎大尉を残しこの計画案の事前説明をさせる。
- 8月30日 軍司令部会議に出席、計画案を説明。軍司令官 攻撃築城への作戦転換を決定。
参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 河北新報 1941年12月6日『迫撃砲の発明者 日露役に輝く今澤義雄少将逝く』。
- 佐藤鋼次郎『日露戦争秘史 旅順を落とすまで』、あけぼの社、1924年。
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日清戦役-58 史料名:第6師団後備工兵第1中隊 陣中日誌 明治27年7月25日~28年6月30日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-344 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其1) 明治37年5月1日~37年7月31日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-345 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其2) 明治37年8月1日~37年8月31日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-346 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其3) 明治37年9月1日~9月30日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-347 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其4) 明治37年10月1日~10月31日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-348 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其5) 明治37年11月1日~11月30日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-349 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其6) 明治37年12月1日~37年12月31日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-350 史料名:攻城工兵廠 陣中日誌 (其7) 明治38年1月1日~1月31日
- 防衛省防衛研究所 公開資料 登録番号:戦役-日露戦役-351 史料名:攻城工兵廠関係史料綴 明治37~38年