京極高矩
江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩4代藩主
京極 高矩(きょうごく たかのり)は、江戸時代中期の大名。讃岐国丸亀藩の第4代藩主。丸亀藩京極家6代。
京極高矩像(丸亀市立資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保3年4月15日(1718年5月14日) |
死没 | 宝暦13年9月24日(1763年10月30日) |
改名 | 縫殿助(幼名)、高定(初名)、高矩 |
戒名 | 大機院殿直翁道載大居士 |
墓所 | 滋賀県米原市清滝の徳源院 |
官位 | 従五位下・佐渡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 讃岐丸亀藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高或、母:伊達宗利の四女・光姫 |
兄弟 | 高矩、西尾忠需、高綏、多賀良安、高亮、常子 |
妻 |
正室:松平信祝の娘・得寿子 側室:久我子 |
子 |
銕子、熊子、高治、高中、高教 養子:高迢 |
生涯
編集第3代藩主・京極高或の長男。享保9年(1724年)、父の死により家督を継いだ。
享保16年(1730年)叙任し、享保19年(1733年)に初めて江戸から丸亀城に入った。
寛保2年(1742年)の夏には寛保二年江戸洪水が起こり、復興のための西国大名の手伝い普請に参加した。
寛延元年(1748年)、領内に台風によるものと思われる風水被害が発生し、寛延3年(1750年)正月半ばから丸亀藩と多度津藩の領内で大規模な百姓一揆(讃岐寛延一揆)が発生した。苛政糾弾や年貢減免などを求めた一揆は参加者7千人とも1万数千人、6万人とも言われるが、月末までに藩側が一部の要求を呑んだことにより沈静化した。藩は首謀者の詮議を行い、同年7月末に首謀者12人を処刑し、その他24人を処断した。
宝暦4年(1754年)に藩内の弘田郷に雲気神社を再興した。宝暦13年(1763年)に46歳で死去した。跡を長男の高中が継いだ。
系譜
編集参考文献
編集- 『西讃府史』