井染祿朗
井染 祿朗[1](禄朗、いそめ[1] ろくろう、1878年(明治11年)3月7日[1][2] - 1930年(昭和5年)4月20日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・吉田。
経歴
編集山梨県出身[1][2][3]。吉田文護の二男として生まれ、宮司・井染得佶の養子となる[1]。陸軍幼年学校を経て、1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し[2]、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる[1][3]。日露戦争に出征[4]。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し参謀本部員となる[1][2][3]。
1911年(明治44年)11月、歩兵少佐に昇進[1]。1913年(大正2年)4月、ロシア大使館付武官補佐官に発令され、参謀本部付、近衛歩兵第3連隊付、参謀本部付、参謀本部員を務め、1919年(大正8年)7月、浦塩派遣軍司令部付となりシベリア出兵に出動[1]。ウラジオ特務機関長、チタ特務機関長を務め情報収集に従事[2][3]。1920年(大正9年)1月、歩兵大佐に進んだ[1][3]。
1921年(大正10年)4月、歩兵第37連隊長に就任[1][3]。第14師団参謀長を経て、1924年(大正13年)2月、陸軍少将に進級し第4師団司令部付となる[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、歩兵第16旅団長に転じ、軍事調査委員長を経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将となり第16師団留守司令官に就任したが、翌年4月、在任中に死去した[1][2][3]。
栄典
編集親族
編集著書
編集- 『西伯利経済地理』外交時報社出版部、1918年。
- 校閲
- 綾川武治著『近代思想と軍隊』兵書出版社、1929年。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、12頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』77頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』156頁。
- ^ 『人事興信録』第8版、イ6頁。
- ^ 『官報』第4920号「彙報-陸軍省-生徒卒業」1899年11月24日。
- ^ “明治大学体育会サッカー部 - MEIJI UNIVERSITY FOOTBALL CLUB”. meidaisoccer.jp. 2020年5月23日閲覧。
- ^ “神に仕えた人 御用掛吉田鞆子”. 神に仕えた人 御用掛吉田鞆子. 2020年5月23日閲覧。