井上 播磨掾(いのうえ はりまのじょう、1632年寛永9年)頃 - 1685年6月20日貞享2年5月19日)頃)は、江戸時代前期の浄瑠璃太夫である。幼名は市郎兵衛後に大和少掾。播磨節を創始した事で知られている。

経歴・人物

編集

京都の生まれ。幼年の頃に御簾の作り職人として活躍していた。

後に大坂(現在の大阪市)に活動の場を移し、人形浄瑠璃をよくする。1658年万治元年)に大和少掾を受領され、通称を藤原貞則や藤原勝則と名乗る。後の1670年寛文10年)頃には播磨少掾を受領され、通称を藤原要栄と改名する。これによって、庶民からは井上播磨掾と呼ばれるようになった。

後に虎屋源太夫の門人となり、江戸金平浄瑠璃を学ぶ。これを参考にして上方(大坂)浄瑠璃を創作し、一躍有名となった。中でも播磨掾が創始した播磨節は修羅の勇敢、悲哀の概念の風流であり、後の宇治加賀掾や孫弟子の初代竹本義太夫等、多くの浄瑠璃太夫に大きく影響を与えた。また、演目数は100曲にも及んでいる。

主な作品

編集

演目

編集
  • 『頼光跡目論』

節事集

編集
  • 『忍四季揃』

出典

編集

外部リンク

編集