井上光兼
井上 光兼(いのうえ みつかね)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸井上氏当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 寛正4年(1463年) |
死没 | 天文20年8月5日(1551年9月5日) |
改名 | 井上源太郎丸(幼名)→井上光兼 |
別名 | 通称:新三郎 |
官位 | 河内守 |
主君 | 毛利弘元→興元→幸松丸→元就 |
氏族 | 安芸井上氏 |
父母 | 父:井上勝光 |
兄弟 | 光兼、元盛、光清、光俊、光家、有景、光貞 |
子 | 元兼、元光、就良、元貞、就正 |
生涯
編集寛正4年(1463年)、安芸井上氏の井上勝光の嫡男として生まれる。安芸井上氏は清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の支流で、光兼の祖父・光教が毛利豊元の妹と婚姻して以降、毛利氏と密接な関係を持つようになり、光兼も毛利氏当主に代々仕えた。
永正4年(1507年)、光兼の邸宅に一人の客僧が訪れて念仏の大事を説いたが、当時11歳の毛利元就が父・弘元の側室であった杉大方に伴われて光兼の邸宅を訪れ、念仏の伝授を受けている。これ以後、元就は毎朝朝日を拝んで念仏を十篇ずつ唱え、後生の事や今生の願いを日輪に対して祈祷することを日課とした。
天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて、元就による安芸井上氏粛清の際に子の元兼や孫の就兼、就澄をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が誅殺されたが、光兼は高齢のため、誅殺を免れ、翌年の天文20年(1551年)8月5日に死去。享年89。