五条高長
鎌倉時代前期から中期の公卿
五条 高長(ごじょう たかなが)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。菅原高長・高辻高長とも。参議・菅原為長の子。官位は従二位・式部大輔。五条家の祖。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 承元2年(1208年) |
死没 | 弘安7年11月24日(1285年1月1日) |
別名 | 菅原高長、高辻高長 |
官位 | 正二位、参議 |
主君 |
安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 九条道家 |
氏族 | 菅原氏流高辻家 |
父母 | 父:菅原為長、母:弁曉の娘 |
兄弟 | 菅原長貞、高辻泰親、菅原公良、高辻長成、高長、菅原長明、長円、藤原俊親室 |
子 | 長経 |
経歴
編集元仁元年12月(1225年)若くして文章生となる。嘉禄3年(1227年)に文章得業生。
安貞2年(1228年)に従五位下・甲斐権守に叙任される。兵部少輔、阿波介、大内記などを歴任し、仁治3年(1242年)に長門守に任ぜられたのち従四位下、続いて従四位上に叙される。建長6年(1254年)に、大学頭、文応元年(1260年)に文章博士と代々務めていた官職を承る。
弘長2年12月(1263年)従三位に叙され公卿に列す。文永8年(1271年)に従二位・式部大輔に叙任され、翌文永9年(1272年)に豊前権守となる。建治元年(1275年)に式部大輔を辞退した後は15年間官職に就くことはなかった。弘安7年11月24日(1285年1月1日)薨去。享年77。
官歴
編集- 貞応3年(1224年)正月26日:蔵人[1]
- 元仁元年12月(1225年1月):文章生
- 嘉禄3年(1227年)2月6日:文章得業生
- 安貞2年(1228年)正月5日:従五位下、2月1日:甲斐権守
- 天福元年12月15日(1234年1月):兵部少輔
- 天福2年(1234年)2月21日:従五位上(労)
- 文暦2年(1235年)9月13日:御禊次第司御後次官
- 延応2年(1240年)正月6日:正五位下(策)、正月22日:阿波介
- 仁治3年(1242年)3月7日:大内記、10月3日:長門守
- 寛元元年(1243年)7月8日:従四位下
- 宝治2年(1248年)4月8日:従四位上
- 建長6年(1254年)9月6日:大学頭
- 建長8年(1256年)正月21日:正四位下
- 文応元年(1260年)10月10日:文章博士
- 弘長2年12月21日(1263年1月):従三位
- 文永4年(1267年)11月8日:正三位
- 文永8年(1271年)2月1日:式部大輔、7月2日:従二位
- 文永9年(1272年)7月11日:豊前権守
- 建治元年(1275年)10月8日:辞大輔