五条 有範(ごじょう ありのり)は、鎌倉時代前期の武将[1]。世系は不明であるが平氏であると伝わる[2]。通称は五条判官[1][2]官位従五位下筑後守

 
五条有範
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 承久3年7月2日1221年7月22日
別名 通称:五条判官
官位 従五位下筑後守
主君 一条家
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略歴

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一条家の家人で在京御家人[1][2]元久2年(1205年後藤基清佐々木広綱らと共に平賀朝雅追捕[1][2]。後に検非違使となり五条判官と呼ばれた[2]建保元年(1213年)に従五位下に叙され、同2年(1214年)には筑後守となった[1][2]承久の乱では後鳥羽上皇方に加わり梟首された[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『五条有範』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『五条有範』 - コトバンク