五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと[1]、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本皇族

五十瓊敷入彦命伝承墓の宇度墓
大阪府泉南郡岬町淡輪ニサンザイ古墳

日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」「五十瓊敷命」「五十瓊敷皇子」、『古事記』では「印色入日子命」と表記される。

第11代垂仁天皇皇子で、第12代景行天皇の同母兄である。石上神宮奈良県天理市)神宝に関する伝承で知られる。

系譜

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(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

日本書紀』『古事記』によれば、第11代垂仁天皇と、後皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、比婆須比売命/氷羽州比売命)との間に生まれた皇子である。

五十瓊敷入彦命は長兄で、両書では同母弟妹として次の4人が記載される。

  • 弟:大足彦尊 (おおたらしひこのみこと、大帯日子淤斯呂和気命) - 第12代景行天皇
  • 妹:大中姫命 (おおなかつひめのみこと) - 記では男性の大中津日子命とする。
  • 妹:倭姫命 (やまとひめのみこと、倭比売命)
  • 弟:稚城瓊入彦命 (わかきにいりひこのみこと、若木入日子命)

記録

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日本書紀』では、五十瓊敷入彦命に関して次の事績が記載されている[1]

  • 垂仁天皇30年1月6日条
    垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った[1]
  • 垂仁天皇35年9月条
    五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った[1]
 
石上神宮奈良県天理市
  • 垂仁天皇39年10月条
    五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した[1]
    同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという[1]
  • 垂仁天皇87年2月5日条
    五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせた。これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という[1]

古事記』垂仁天皇段では、印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(茅渟池)・ 狭山池(大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(高石池に同じか)を造ったという[1]。また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、同宮にて河上部を定めたという[1]

 
五十瓊敷入彦命 宇度墓
(大阪府泉南郡岬町)

は、宮内庁により大阪府泉南郡岬町淡輪にある宇度墓(うどのはか、北緯34度19分49.67秒 東経135度10分43.49秒 / 北緯34.3304639度 東経135.1787472度 / 34.3304639; 135.1787472 (宇度墓(五十瓊敷入彦命墓)))に治定されている[2][3]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「淡輪ニサンザイ古墳」で、墳丘長200メートルの前方後円墳である。

五十瓊敷命の墓について『日本書紀』・『古事記』に記載はないが、延長5年(927年)成立の『延喜式諸陵寮諸陵式)では「宇度墓」の名称で記載され、和泉国日根郡の所在で、兆域は東西3町・南北3町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する。これに先立つ持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[4]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[4]

しかし、中世には荒廃して所在が失われた[3]明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、明治13年(1880年)に現在の墓に改められている[3]。なお、現墓について『和泉志』では紀小弓の墓としている[3]

伝承

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伊奈波神社岐阜県岐阜市)の社伝によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 五十瓊敷入彦命(古代氏族) & 2010年.
  2. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
  3. ^ a b c d 宇度墓(国史).
  4. ^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。

参考文献

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  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 上田正昭「五十瓊敷入彦命」石井茂輔「宇度墓」(五十瓊敷入彦命項目内)
  • 「五十瓊敷入彦命」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588 

関連項目

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