二階堂照行

戦国時代の武将・陸奥国の戦国大名。須賀川二階堂氏6代、須賀川城主。二階堂晴行の嫡男。弾正大弼、信濃守。子に大久保資近
二階堂輝行から転送)

二階堂 照行(にかいどう てるゆき)は、戦国時代武将陸奥国戦国大名須賀川二階堂氏6代当主。

 
二階堂 照行
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄7年9月18日1564年10月22日
別名 行秀、輝行
官位 弾正大弼信濃守
氏族 須賀川二階堂氏
父母 父:二階堂晴行
兄弟 照行横田義信
伊達稙宗
盛義大久保資近
テンプレートを表示

生涯

編集

二階堂晴行の嫡男として誕生。名は行秀(ゆきひで)、輝行(てるゆき)[1]とも伝わる。

須賀川城を居城として、陸奥国岩瀬郡を支配した。伊達稙宗の娘婿であり、伊達氏の内紛である天文の乱の際には稙宗側に味方した。照行の代には「わずかに五十余郷を領す」とあり衰微を思わせ、永禄2年(1559年)には田村氏に今泉城を奪われた。以後、しばしば今泉城の回復を図ったが、目的を果たせぬまま永禄7年(1564年)に死去し[2]、跡は嫡男・盛義が継いだ。

なお、没年を天文6年(1537年)または弘治3年(1557年)と記載している文献もあるが、誤りである。

脚注

編集
  1. ^ 一般には二階堂輝行の名で知られるが、古文書には「輝行」と署名したものは認められない。ただし、父の晴行が室町幕府第12代将軍足利義晴から偏諱(1字)の授与を受けているので、その子である照行が第13代将軍・足利義輝から偏諱を賜って「輝行」と名乗ったとしても矛盾はない(没年月日は義輝が殺害された永禄の変が起きる半年ほど前であり、照行(輝行)がちょうど義輝が将軍であった頃の人物であることは確実である)。よって、一時期この名を名乗っていたものと思われる。
  2. ^ 『須賀川の今昔』