二階堂行朝
鎌倉時代~室町時代の武士。勅撰集『続千載和歌集』以下に10首入集。信濃守、左衛門尉、安堵方頭人、引付方頭人、引付方寄人、評定衆、内談衆、建武政権 政所執事、室町幕府 政所執事
二階堂 行朝(にかいどう ゆきとも)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武士。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正平8年/文和2年9月25日(1353年10月22日) |
改名 | 行朝→行珍(法名) |
別名 | 通称:信濃入道 |
官位 | 左衛門尉、信濃守 |
幕府 | 鎌倉幕府、室町幕府 |
主君 | 北条高時→足利直義→尊氏 |
氏族 | 藤原南家乙麻呂流 二階堂氏 |
父母 | 父:二階堂貞綱 |
子 | 行親、行通、行良、二階堂顕行室 |
略歴
編集二階堂貞綱の子として誕生。当初は北条高時に仕えたが、嘉暦元年(1326年)出家し、行珍と称した。建武2年(1335年)、延元3年/暦応元年(1338年)、正平7年/文和元年(1352年)の3度にわたって政所執事に補任された。
また建武3年/延元元年(1336年)には安堵奉行、安堵方の頭人、延元3年/暦応元年(1338年)には引付衆・引付奉行人、引付方の頭人を務め、興国5年/康永3年(1344年)には引付方一番の寄人に任ぜられ、他に評定衆、内談衆も務めるなど広く吏僚として活躍。観応の擾乱では初め足利直義方についたが、のちに足利尊氏方に降った。
正平8年/文和2年(1353年)、尊氏の相伴として上洛した際の落馬がもとで死去した[1]。洞院公賢は日記『園太暦』で「近頃の武士の中ではよく物をわきまえており、元弘のころから公家とも古なじみであった。変死してしまうとは残念なことだ」とその変死を悼んでいる。
一説に上洛し湯治の為に上方の二階堂行朝の義従兄弟の佐々木道誉邸宅に隠居したとされる。道誉の正室は二階堂行綱の孫二階堂時綱の娘である。
脚注
編集出典
編集- 安田元久『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1990年)
- 太田亮 『姓氏家系大辞典』、上田萬年、三上参次監修 角川書店、1963年11月。 NCID BN01488361。
- 細川重男、「政所執事二階堂氏の家系」、鎌倉遺文研究会編 『鎌倉時代の社会と文化』 東京堂出版〈鎌倉遺文研究 2〉、1999年4月。ISBN 978-4-490-20375-2。
- 木下聡、「二階堂氏」 『室町幕府の外様衆と奉行衆』 同成社、2018年4月。ISBN 978-4-490-20375-2。
史料
編集- 『太平記』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『鎌倉年代記』 裏書